あともうひとつ、これは和歌山県に限らないんですが、「田舎に籠もってヒッピー型インテリ活動をするグループ」っていうのが今の日本には結構いるみたいなんですよね。
これは地名的には三重県になりますが、尾鷲市九鬼という「ザ・漁村」みたいな湾内の路地の奥の奥みたいなところに、土日だけやってる本屋さんがあって…
以下が公式サイトみたいです。
尾鷲市九鬼町 漁村の本屋 トンガ坂文庫
似た感じで、出版活動を行っている、三重県色川町の「らくだ社」さんというご夫婦がいて…
二弐に2(にににに)- らくだ舎
そういう存在が日本全国に住む、こういう「オルタナティブ・ヒッピームーブメント」型のミニマムな本屋さんだったり一人出版業だったりをやられている仲間を募って本を出した…みたいなイベントにちょこっとだけお邪魔しました。
時間の関係で長居はできなかったんですが、この『二弐に2』っていう本は買わせていただいて、家帰って読んだら、今の世の中で忘れ去られかねない位置にある「ド直球のヒッピー型理想主義」が横溢してて凄い良かったです。
現代文明を憂う論説とか、対談とかがあったかと思えば、詩があったり、短編小説があったり写真があったり・・・という全部盛りでめっちゃ分厚くて四千円以上するという構成なんですが、「ザ・資本主義的風潮」の中では絶滅危惧種のこういう種類の編集方針を、「灯火を消さない」的な連続性の中で保持していこうとしている人たちが日本全国にいるんだなあ、みたいなことは結構勇気をもらえる感じでしたね。
載ってる対談とか読んでて思ったんですが、とにかくこういうインテリタイプの人間が「山村に暮らす」ことで、その「山村の人間関係」と「インテリ文脈」を接続していくための土壌づくりになっているところがあるなと思いました。
で、こういう「ヒッピー型理想主義」を持った存在が津々浦々の山村なんかに根を下ろして出版やら本屋さんやらやってるという事は、それ自体を「資本主義的」な金額換算をするとあまり大きいものには見えないと思うんですね。
でも、例えばニューヨークの寂れた家賃の安いエリアにヒッピーが集まって、ある意味で一部の人にしかわからない「理想」を掲げてワイワイやっていたものが、そのうち「資本主義」と接続してエリア全体がヒップな存在になっていく・・・というような、「ロングテール消費のシーズ」として非常に重要な存在なはずなんですよ。
さっきのジェイさんの活動も、この「トンガ坂文庫」さんや「らくだ舎」さんの活動も、その行為単体で見た時の「資本主義的な貨幣換算価値」みたいなものは決して大きくない。
しかし、「ロングテール型消費の需要」は凄くあるのに「供給」をちゃんとやるのが難しい・・・という現状の中で、いかに「嘘じゃない多様性」を「供給」レベルまで持ち上げていくか・・・という難しいチャレンジにおいて、こういう「ヒッピー型インテリの情熱」というものは非常に重要な役割を果たすべき存在なはずですよね。
5. 「暇な金持ちの趣味的な関わり」が大事な触媒になるのかも?とはいえ、そういう「知的なヒッピー活動」が、その土地に明らかに存在していた大事なシーズが崩壊しないように温めてくれていたとしても、それをそのまま放置していても、「ロングテール型の多様性が経済に還流する大きなムーブメント」にはなかなかならないところがありますよね。
特にトンガ坂文庫さんやらくだ舎さんのような人たちは、「現代資本主義への懐疑精神」がコアの結集軸みたいになっているところがあるので、どうしてもそういう「資本主義との接続」を嫌うカルチャーがあるし、そしてもちろんそういう「資本主義を嫌うカルチャー」自体が、しょうもないお仕着せのマスプロ消費に堕することなく「ロングテール型の多様性が還流する理想」に行くために大事な要素であったりする。
この「ラストワンマイルをどう繋ぐか」っていう点について、特になぜコロナ禍を経て「新しいロングテール」が徐々に評価されるようになってきたか?という問題について、
『ヒマな金持ちの趣味的なかかわり』
…が重要なんじゃないか、っていうのを今回の旅行ではかなり思いました。
私の長年のクライアントのS氏は、メインの収入源は海外で会社を数社経営していることなんですよね。
で、和歌山の先端の僻村で年間半分ぐらい過ごしてあれこれやってるけど、まあそれは純粋に金額的なことを言えば「趣味」の範疇だというか。
ただ、そういう存在が少数でもかかわると、例えば日本の大企業や海外からの「ワーケーション(workとvacationを合わせた用語で、リゾートに来て普段と違う環境でリモートワークして生産性を上げましょうというジャンル。和歌山県はこの分野で非常に先進的な取り組みがあるらしい)」需要を取り込むとか、ロケットの発射台を誘致するとか、そういう「大きな話」が進むようになる。
ロケット「カイロス」初号機打ち上げ応援サイト
こういう大きな話だけじゃなくて、S氏は呆れるほどネットワーカーというか、なんか四六時中名刺交換して、「あの人に会うべきだ」「この人とこの人をつなげよう」みたいなことをやってるタイプの人で、そういう活動が、「本当の多様性のシーズ(種)」がちゃんと育って「ロングテール型の需要に応えられる商品」になっていくラストワンマイルを埋めつつあるんじゃないかという気がしました。
要するに、「平成期」の町おこしって、東京のコンサルとかが入って、役所の補助金を得て、とりあえず「名産物」を作ってはみるけど、「とにかくすぐに商品化して目に見える成果を出さなきゃ」みたいなところがあって、掘り下げが浅いものが多かったんじゃないかと思うんですね。
とりあえず「ゆるキャラ」作ろうとか、準備不足のままとりあえず「名産品」として「どこにでもありそうなお菓子とかを作る」とかになりがちだった。
でも、S氏は別にすぐ売上建てようと思ってなくて、外国人の奥さんと一緒に日本で環境の良いところで住む土地が欲しい…と思って検索してたまたまそこの土地と古民家を買って、年の半分ぐらい滞在しながら「単に面白いから」あれこれ手を出して人間関係を作って行っている。
「トンガ坂文庫」さんや「らくだ舎」さんのような知的ヒッピーコミュニティにも、ジェイさんのような変わり種にも、色んな地場の料理屋さんや新しい観光資源を作ろうとしている人たちにも、ちょこっとずつ関わって、間を繋いで何か起こそうとしている。
さらには、一緒に林業やってみて「せんせー、動きが危ういなwww」とかからかわれながら人間関係を作ってたり、あとはその土地伝承のお祭りみたいなのが消えてしまいそうだからといって、手弁当で参加して「継承者」みたいなのになったりしている(笑)
この「別にすぐ売上作ろうとしてない」動き自体が、「そこにある本当の多様性のシーズ」を「ロングテール型需要」の中に昇華していくために大事なカギになって来るんじゃないかと思いました。
結果として、コロナ禍前後から、リモートワークが盛んになることで、日本中の「定番観光地以外の田舎」においてこういう
「物好きな金持ちの趣味的活動」
…ってあちこちで起きているはずですよね。
大分だろうと石川だろうと、千葉の奥地だろうと、どこでもそういう「今までにない接続」が生まれつつあるはず。
今まで資本主義メカニズムの埒外にはじき出されてしまっていたために、「資本主義とは関係ない情熱」によって支え続けないと崩壊してしまった「大事な多様性のシーズ」を、そういう「金持ちの道楽」的なものがブースターとなってちゃんと「資本主義の本来的な機能」と無理なく接続して大きな経済的循環が生まれる流れに少しずつ近づいているところがあるんではないかと思いました。
6. 大きな資本主義的投資と、ヒッピームーブメントがどうすればつながるか?20年近く前、私が外資系コンサルティング会社のマッキンゼーにいた時に、日米の経済学者と日本政府の外郭団体が協力した日本経済分析プロジェクトに参加したんですが、日本社会はとにかく「優勝劣敗型に統合していく資本主義のパワー」が嫌いすぎて、必死に抵抗して零細状態のまま放置されてきたことが、給与をあげづらい構造的理由になっている、というのはもう「定説」レベルになっているんですね。
大枠の議論としては、それを時代に合わせていかに「集約」していくかが大事だ、というのは以下の本にも書いたとおりです。
『日本人のための議論と対話の教科書』
ただ、過去20年とかの日本の「停滞」とされる現象について言えば、そういう「マスプロ的」に集約してしまう”低レベルな資本主義”に対して20年間必死に抵抗してきたことが、「本当の多様性のシーズ」を崩壊させずに温存できてきた・・・というようにポジティブに捉える事が必要だと私は考えています。
そしてそこまでの「抵抗運動」のために、「ヒッピー型ムーブメントが持つ反資本主義的精神」は重要な役割を持っていた。
しかし今後、ネットが普及して文化的な成熟もした上で、「ロングテール型の多様性を掘り起こしていく資本主義の本当の優しさ」と、「ヒッピー型ムーブメントが温存しようとしてきた本当の多様性のシーズ」がいかに接続できるかが大事な時代になってくると考えるべきなのだと思います。
以下の記事で書きましたが、
再エネ普及は「宗教家」から「実務家」の時代へ。未だ残る大課題「電力供給の安定」を皆で考えればもっと先に進める
たとえば「ヒッピー派」の人は例えば関電とか東電とかが大嫌いな人が多かったですが、最近の小規模水力発電事業なんかは結構関電や東電とうまくやってる例が増えてるみたいなんですよね。
無理やりなマスプロ的消費のゴリ押しを許さないために、彼らの「反資本主義的な意地」は凄い大事なんですが、かといってインフラ維持をどうやっていくのか?みたいな話は「ヒッピー精神」とは別の論理も含めてちゃんと考えていかないといけないわけで。
そういうところで「20世紀的なアレかコレかどっちか選べ」という精神を乗り越えた、「資本主義のパワー」が一番奥に内蔵している「本当の多様性」を掘り出してくれる機能といかにシンクロしていけるか、そういうチャレンジをやっていければいいですね。
今回僕が泊った宿は、一部屋だけしかない崖の手前の一軒家がパスワード式の自動チェックインで入れる宿だったんですが、これは地元のタピオカミルクティー屋さんが副業でやってるとか聞きました。
そういう「マニアックな主人のマニアックな」宿もあっていいし、一方で結構近くにマリオットがやってる大きめのホテルがあったりしたんで、そういう「いかにも資本主義的」な投資も当然あっていい。
最近新潟の妙高高原スキー場に数千億円の外資系の投資が入るってニュース見ましたけど、そういう「大規模投資」は大規模投資でやればいいけど、一方で「地場の本当の多様性のシーズ」もそこと自然に併存するように持っていけるかが重要なはずですよね。
そういうのが隣接してシームレスに繋がっているかどうかというのが大事で、この「地場の色んな活動」と「資本主義的大投資」が完全に分離してしまうと、それはそれで「あまり面白味のないどこにでもある存在」にしかならないし、現地社会からその投資があまり受け入れられずにトラブルになったりもする。
S氏が言ってたんですが、東南アジアの途上国型リゾートの多くは「その僻地のコミュニティ」からはほぼ完全に隔絶されていて、完全に人工的なテーマパークになってしまっているらしい。
同時に、そういう国で、「本当の僻地」っていうのはアクセスも悪いし、そもそも反政府勢力が支配していたりして、仕事でそういうところに行くなら護衛をつけて行くことが必須になったりするとか。
「僻地のナマのコミュニティの独自性」が一応維持されていつつ、かといって過剰に閉鎖的になって中央政府に敵意を剥き出しにしたりもしていなくて、適切に調和した環境が維持されている日本の地方には「大きな可能性」があるという話でした。
そういう形で、「ロングテール型の本当の多様性を求める資本主義のパワー」に向けて、「嘘でないリアルな多様性のシーズ」を丁寧に育てていって、「メガヒットを一個」でなく「持続可能な”小バズ”を百個」という形で昇華させていけるかどうか・・・というのが、これからの日本の大事なチャレンジだと思います。
7. 過去の「罵りあい」を超えていくベストタイミングが来つつある?最近は日本の田舎について、絶望的な声しか聞かれないような感じになってますが、ただ一緒に色々回ってくれたS氏いわく、
「古い地域だけでなんとかなってるうちはヨソ者を受け入れないし、本当に崩壊状態になったらもうその土地ごと廃棄されちゃうこともある。その手前に、”外部から来た人と一緒になんとかしないとマジでヤバい”という機運が一番高まる瞬間があって、そこをうまく捉えられるかが大事だ」
…という話で、今の日本の「田舎」というのはまさにそういう「ベストタイミング」を迎えつつある感じなんだろうなと。
全体として私が思うのは、昭和平成期を通じて行政が旗を振っても決して実現しなかった「コンパクト化」が、今少しずつ進んでいる流れはあるんじゃないか、という感じがしました。
というのも、「僻地の山村」といってもコンビニも深夜までやってるスーパーもある地域とかもある一方で、「鬼滅の刃」の炭治郎くんの実家みたいな「ガチ僻地」もある。
どの程度かはともかくある程度は「集住」させないとインフラ維持コストだけでも天文学的数値になるんで、人口が数千万人単位で減る予定の日本ではマジでヤバいからなんとかしなくちゃ、とは長い間言われてきたけど、単に行政が旗振ってもなかなか進まなかったですよね。
ただ、今はそういう僻地は「中心部付近」になっても空き家がいくらでもあって、2−3割しか常住してなくて、たまに人がやってくる家をあわせても半分は空き家だろうという話でした。
S氏はその古民家を数軒まとめて、中にはほとんど手を入れずに住める物件も含めて60万円とかで買ったそうなので、こういう部分を利用した「集住」は徐々に自然と進む感じがします。
さらにいうと、なんだかんだ「僻地の中の中心地」には、集合住宅みたいなのも結構建設中だったりするのを結構見るんですよね。
こういう現象は全国的に起きているはずで、私の妻の両親は熊本の山村出身ですが、「結構山がち」なところにあった実家が「もっとガチで山」なところに住んでる人に買ってもらえたと喜んでいたので、そういう形で「行政が旗振らなくても自然に起きるコンパクト化」が起きつつあるのは間違いない。
そして
・ある程度「集住」してコストを押さえた上で、
・「集住した人のパワー」でスーパーやコンビニとかチェーン店みたいな「日常便利店舗」も維持してもらった上で、 ・あとは今回記事で書いてきた「本当のロングテール型消費のメカニズム」にちゃんと接続していく
ための、
「ヒッピー型インテリと、暇な金持ちの趣味と、現地のナマの住民のインタラクション」
…が回っていけば、希望は見えてくるんじゃないかと思いました。
普段私がよく言ってるように、日本がこれから本当にオリジナルな繁栄をしていくためには、欧米由来の「世界を2つに分けて論争のための論争をする」ような20世紀型のカルチャーを乗り越えていかないといけません。
自分たちが持つ「本当の多様性」を掘り起こし、資本主義が持つ「本当の優しさ」とシームレスに接続していけるように、色々工夫して頑張っていきましょう。
■
長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここ以後は、ちょっと単純に「クジラってかっこいい!と思った」という話をします。
さっき紹介した太地町に住んでるアメリカ人ジャーナリストにオススメされて、太地町の「くじらの博物館」に行ってきたんですけど、めっちゃ良かったんですよ。(入場料ちょっと高いけど行く価値あります。)
なんかね、クジラっていう生き物の壮大さとか、美しさとか、それに必死に食らいつく捕鯨文化のかっこよさとか、なんか凄い感動したんですよね。
ただ、なんか、だからといって、捕鯨反対!という気持ちには全然ならなかったというか、もちろん絶滅させるようなことは明らかに良くないが、「クジラと関わってきた人間の歴史」ごと、「尊い」ものとして丸ごと理解したい、という気持ちになったところがあって。
こういう時に、「自分は手を汚さない側だ」という身ぎれいさを強調することで「自分の倫理性」を高めようとする行為が、自分は世の中で一番嫌いな存在というほど嫌いだな、と思ったというか(笑)
「自分もその罪深さの環の中にいる」ことを自覚した上で、その上で、環境負荷がもっと低い世の中にしていったほうがいいよねとか、さすがに残酷な殺し方すぎるのは良くないのでは、みたいな方向に行くことが大事なんじゃないかとか。
ここ以後の部分では、色々と感動したくじら博物館の展示の写真とかも何枚か載せながら、そういう「今のポリコレ的断罪」が持っている身勝手さの本質はどこにあって、そういうムーブメントがなぜ社会を分断してしまうのか?について考察したいと思います。
■
つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年11月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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