1. 需要側の要望に、供給側は応えることができてない

    だから、「ロングテール化していく需要」というのは確実に存在するんだけど、「供給側」がそれに応えるのってなかなか難しいんですよね。

    というのは当たり前で、「需要側」は気楽に

    「定番には飽きちゃったんだけど、なんか穴場でスゲー面白いとこないのぉ?」

    って際限なく要求すりゃいいけど、それに「応える」って一筋縄じゃいかないですからね。

    「供給側」がちゃんと「定番以外のメニュー」を掘り出し続けるようなプロセスが沈黙していると、「観光需要」は結局「定番」に吸い込まれ続けて、一部の「定番」がオーバーツーリズムで疲弊し、そして「本来そこにあった多様性」も顧みられないまま朽ちていくサイクルが続いてしまうことになる。

    要するに、今の世界における「本当の多様性」を取り戻すためのポイントは、

    「果てしなくロングテール化していくニーズ(需要側)」に対して、適切に「供給」側が応えられていないミスマッチ

    ↑このボトルネックをいかに解消するか?にかかっているのだ、ということが言えると思います。

  2. ”昭和の消費モデル”の脱却と再構築が必要

    今回の和歌山旅行で、めっちゃ印象的だったのが、晩ごはん食べたこの店なんですよね。

    串本旬彩 おおはし

なんか料理人の店長氏の思い・・・みたいなものがメニューに結構長めに掲載されていて、

・うちはサーモンみたいな近所で取れない魚は出さない ・「名前のつかない魚」(未利用魚)も積極的に使う。知らない魚でもぜひ食べてみて欲しい。絶対美味しいから。

…みたいな事が切々と書いてあって、とにかく何食べてもめっちゃ美味しかったです。

「未利用魚」というのは、要するに、色んな理由で流通に乗せづらいために、水揚げされても結局漁師さんが近所で食べて終わりになってる種類の魚のことです。(詳細は以下記事などを)

未利用魚の一覧:未利用魚の種類は?名前と未利用魚になる理由を解説

ベタな言い方をすると「大量生産大量消費モデル」に合致しないというだけで排除されてしまっている魚類ということになる。

しかし「そこに実際に存在する魚だし、そこの土地で古来食べられてきた文化も存在する」魚ではあるはずなんですよね。

だから、その土地には『美味しい調理法』が存在するし、適切に調理されて、「ここでしか食べられない魚なんです」という風に演出されると「来て良かったなあ!」ってむしろなる「ロングテール型商品のコア」になるものなはずじゃないですか。

こういうのって、「昭和の高度経済成長期」に、「どんどん捨て去ってきた文化」みたいなところがあるわけですよね。

最近は多少マシになったと思いますが、10年前ぐらいの日本の温泉宿って、「この県そもそも海ないじゃん」みたいな山奥でも「そういう土地での贅沢品であるお刺し身を出すのが豪勢さの演出」みたいな発想のメニューが多かったですよね。

また、漁港に行っても、例えば近所で穫れるはずがないタイプの例えばサーモンが食べたい・・・とか言い出す消費者側のミスマッチも存在していた。

作家の司馬遼太郎が紀行文のなかで、

「昔は特有のその土地の文化を伝えていた観光の名所だったものが、ガチャガチャした土産物と下品な看板があふれる”どこも同じ”観光地になってしまった」

…みたいな趣旨のことを凄い嘆いていた文章を見たことがあるんですが(記憶からの再現なので正確な文面ではないです)

これはもう言い尽くされていることですが、日本の観光地は、そういう感じで「昭和の経済成長期」に「大型バスで乗り付けてその土地のものを味わったりもせずとりあえず酒のんで騒ぐ」型の消費モデルに最適化されすぎてしまったところがあって、「ロングテール消費を求める需要側のニーズ」にうまく合致できていないところはあったのは確かだと思います。

いかにそういう「特有の文化」を感じさせる「多様性のシーズ(種)」を掘り出して、変にマスプロ化しようとしないでロングテール型の消費に還流していけるかが今最も重要な課題だと言えるでしょう。

この「マスプロ化しないでロングテール型に還流する」というのは、要するに

・「一個のネタを大量生産して売りまくる」

のではなく、

・「100個のネタを発掘して、それらがネットを通じてそれぞれ”小バズ”的に消費される」

…ような、

・『多様性が内包された経済構造』をいかに作れるかが大事だ

…ってことですね。

4. インテリと現場の相互作用がカギ

案内してくれた長年のクライアントのS氏は、なんかこう「ネットワーキングマニア」みたいなところがあって、次々と色んな人を紹介してくれたんですよね。

僕はただアホの顔をして温泉入って休む旅行のつもりだったので、自分の著書のサンプルどころか名刺すら持っていってなくて「お前何しに来たの」状態で恐縮だったんですが、色んな「インテリ寄りの人物」が共存して生きてる状態には感銘を受けました。

捕鯨で有名な太地町(イルカ漁でも有名で、”コーヴ”という海外の意識高い系カルチャーの映画で批判的に紹介されて大問題になったことを覚えてる人もいると思います)にも行ったんですが、そこでこういう人に紹介されたりして…↓

太地町に住み込んで日本と欧米のカルチャーギャップがメディアに焚き付けられて国際的な社会問題化する現象についての博士論文を執筆中のアメリカ人ジャーナリスト

↑なんかこう、僕がやってる言論活動の内容を考えると「出会うべくして出会った」という感じの人で、時間が合わなくて現地では一時間ぐらいしか話せなかったですが、連絡先交換したんで今後大事な友人になりそうな感じがしてます。

彼に紹介されて、太地町の漁協がやってるローカルスーパー(中身は日本のどこにでもある普通のスーパーっぽい)でイルカとクジラの肉を買って帰ってきたんですけどめっっっっっっっちゃ美味しかったです。びっくりした。

太地町漁協スーパーで買ってきたものたち

イルカ肉を大和煮にして食べたら美味すぎて驚いた

クジラ以上にイルカ肉には心理的抵抗感が個人的にはあったんですが、びっくりするほど美味しかったです。

クジラは結構牛肉とかに似たプレーンな味がする種類が多く、イルカ肉は多少クセが強いジビエっぽい味で、でもその「クセ」の部分がかなり中毒性がある。

さっき貼った晩ごはん食べた料理店でも、「ミンククジラのタタキ」があってこれもメチャクチャ美味しかったんですが、世界観が変わりましたね。

クジラ漁やイルカ漁について色んな意見を持っている人がいると思いますが、正直「この湾に古来暮らしてきた民」からすれば、「すぐそこでこんな美味しい肉が手に入る」なら食わないはずないよな!というナマの納得感はありました。

その「彼らが蓄積してきた文化」自体には敬意を払うべき構造が確実にあるなと。

太地町に住み込んでいるアメリカ人ジャーナリストのジェイ氏によると、こういうのが「文化」だと言えるかどうかというのが欧米のメディア環境的には非常に重要なポイントで、彼は江戸時代の資料なんかから連続性を持ってその土地の捕鯨が「文化」扱いして良いものだということを証明する活動をしているそうです。

要するに『文化』だってことになったら、ニュージーランドの「ハカ」みたいなのがポリコレ文脈で至高の存在に祭り上げられているように、「美しい保護されるべきもの」となり、『文化』ではなく単に近世になってちょっと続いてる風習にすぎないのだ、ってことになると、「滅ぶべき許されざる野蛮な行為」ということになるらしい。

正直言ってそういう言論環境自体が欧米文明中心主義的な差別を感じないでもないですが(笑)、でもそうやって「グローバルな文脈」と「現地に蓄積されている文化」を知的に繋ぐような役割を果たしてくれている人がいること自体には大変感謝するべきポイントであるように思いました。