この患者は、「自力でトイレに行けなくなった時点」でのセデーションを希望していました。しかし、患者の希望する時点でセデーションを開始してしまうと、安楽死に近い治療となってしまうため、今の日本ではそのような治療は不可能なのが現実です。

一方、日本で安楽死が法制化されれば、そのような治療も可能になりますし、 終末期の初期に安楽死することも可能となります。

緩和ケア医は、緩和ケアにより苦痛を軽減し、それでもだめな時はセデーションを実施して「自然な死」を迎えることが望ましいと主張します。しかしながら、私はこの「自然な死」という表現に違和感を覚えるのです。どこか、不自然な感じがするのです。また、セデーションは状況によっては死期を早めてしまう場合があることが指摘されています。

そのため、もう一つの選択肢として安楽死があるべきなのです。もちろん、安楽死で人生を終えることは「不自然な死」です。しかし、どのような死を不自然と感じるかは個人の死生観に依り、絶対的正解があるわけではありません。患者が選択できることが何より大切なのです。イギリスのホスピスの責任者も、終末期に安楽死が選択できることの重要性を訴えています。

安楽死反対派は、「社会的弱者が本人の意思に反して安楽死に誘導されてしまうことが有り得る」ため安楽死は望ましくないとしています。しかしながら、死が数日~十数日に迫った時期においては、あまり説得力のない主張であると私は思います。このような時期では、弱者とか強者とかはあまり関係がありませし、欧米と日本との死生観の違いもあまり意味を持ちません。

死を目の前にして「耐えることに何の意味も見出せない不毛な苦痛」を消し去りたいという人間の根源的な要求として安楽死があるのみです。このような時期においては、医療者の正義を患者に押し付けることに正当性があるとは私にはとても思えません。

・安楽死の是非に正解はあるのか?① ・安楽死の是非に正解はあるのか?② ・安楽死の是非に正解はあるのか?③ ・安楽死の是非に正解はあるのか?④ ・アメリカ合衆国で実施されている安楽死制度