ただし、セデーションの開始時期は現在の日本では患者の希望のみでは決まりません。医師一人の判断でも決められません。通常は、医療スタッフを含めたカンファレンスで決定されます。

以下は、膵臓癌の末期患者のセデーション開始を認めるかどうかの討論です。書籍(だから、もう眠らせてほしい 安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語)より引用します。

「ええと、話を聞いている感じだと、私は彼女に『耐え難い苦痛』があるのかということがよくわからないんです。呼吸が苦しくてあえいでいるとか、痛くてのたうち回っているとかだったらわかりますけど、笑顔で会話もできて、吐いてしまうにせよ食事もできて、歩くこともできている。それって『耐え難い苦痛』がある、って状況なんでしょうか」

…中略…

「いえ、動ける、動けないにかかわらず、彼女には『耐え難い苦痛』があります。だって、月曜日の時点で彼女は昼も夜もなく二時間おきに起こされてトイレに駆け込み、嘔吐をし、それでも止まない吐き気に苦しめられてきました。これを耐え難い苦痛と評価しないで、何が耐え難い苦痛でしょう。」(No.2081)

このカンファレンスの結論は、「現時点ではセデーションを適用する状態ではない。ただし再び月曜日のような状態に戻った時はセデーションを開始する」というものでした。患者は、カンファレンスの翌日に増悪したためセデーションが開始され、10日後にお亡くなりになりました。

重要な点は、カンファレンスで強硬に反対する人がいると、患者が強い苦痛を訴えていたとしても、セデーションが開始が遅れることが有り得るという点です。医療者に悪意はないのですが、結果的に医療者の正義が患者に押し付けられているように私には見えるのです。

患者の希望通りに治療していたら、医療が滅茶苦茶なものになってしまうという意見があります。確かに病気の急性期や慢性期においては患者の希望通りに治療する必要はないと私も思います。しかし、終末期においては、可能な限り患者の希望に添った治療が行われるべきなのです。