しかし、これでも山本は支持者を獲得し、支持者は溜飲を下げるのだから双方にとって十分なのだ。

民主主義の面倒な手続きに耐えられない人々は一瞬の解放感に酔い、何も変わっていないのに気付くと権力に憤りを覚え、新しい映画の公開を待ち望むように山本の次のパフォーマンスに期待する。これが、何ひとつ実現していない山本が失望されるどころか支持される理由だ。

経済観だけがまともに見えるという評価

2011年に発生した原発事故以降の山本太郎の言動を追うと同時に、Googleで「山本太郎」について検索された件数の推移から世の中の反応ぶりを観察してきた。

安倍晋三は政権与党の党首かつ首相であったのを考慮しなくてはならないが、山本太郎と比較すると、興味がなだらかに増加していた。関心の基盤となる、興味を抱く層が厚いのもわかる。

いっぽう山本は参議院議員になってから、焼香パフォーマンスなどがあったものの興味の度合いが低迷している。しかし同様に低調だった枝野幸男と比較すると、話題が激しく消費されたため興味の増減が著しかったのがわかる。

山本は破天荒な行動をやって見せないと忘れ去られるのを自覚していて、人々の不安や不満が高まり性急に解決策を求める災害時だけでなく、日頃から話題づくりにやっきになるのだろう。これが「公約だけ見ると異様ではない」ものの、山本に突飛で破天荒な印象が付きまとう原因だ。

講演会の質疑応答で福島に派遣されたレスキュー隊が被曝死したというデマが語られたとき事実として扱い進行したのも、原発再稼働に決定権のない佐賀県庁へデモ隊と突入したのも、「べクレてる」と言ったのも、承認欲求が高じて期待に応えようとしただけなのかもしれない。

いっぽうで、山本の経済観はマクロ経済学を松尾匡らからレクチャーされただけあってまともだと評価して、経済政策だけ支持する人たちがいる。しかし、山本が経済問題で破天荒な態度を取っていたら、たとえ経済観に裏付けがあったとしても不評を買っていたはずだ。彼は減税を唱えて焼香パフォーマンスのような真似をすることも、ロスジェネ対策を叫びながら国会でダイブすることもなかった。