明けましておめでとうございます。
今年は昭和100年である。昭和元年(1925)は普通選挙が決まった年だが、奇妙なことに「昭和デモクラシー」とは言わない。それは昭和という時代に、およそデモクラシーとは逆の軍国主義の記憶がまとわりついているからだろう。この年は、治安維持法の制定された年でもある。
国家総動員体制でできた社会保障制度その時代は敗戦で終わったが、今も続いている制度は多い。1922年には政府主導の健康保険ができ、日中戦争の始まった1938年には厚生省ができ、1941年には戦費を集めるために厚生年金ができた。1941年には国家総動員法が施行され、すべての業界を政府が指導する戦時体制ができた。
このとき電力は日本発送電のもとに9社の配電会社ができ、鉄鋼は日本製鉄に統合された。自動車は豊田と日産に独占させ、電気は日立と東芝と松下が軍需で成長した。軍需産業には指定金融機関を決めて政府が資金を統制し(メインバンクの原型)、農業は「農業会」という政府主導の組織に一元化され、これが戦後は農協となった。新聞は各県1紙に統合され、政府が検閲した。
こういう戦時体制は戦後GHQが解体したと思われているが、官僚機構は(陸海軍を除いて)温存され、大企業や銀行も生き残った。戦後の総動員体制の目的は経済成長に変わったが、手法は同じだった。労働者は企業別組合に組織され、労使が「一家」で生産に励んだ。
不良債権処理で逃したチャンス戦後の日本を支えたのは、アメリカの占領統治だった。それは講和条約とともに終わる予定だったが、自民党が憲法を改正できなかったため、その後も実質的な占領体制が続いている。アメリカは日本をアジアにおける橋頭堡とするために技術供与し、トランジスタラジオもテレビもVTRも、アメリカで開発された技術を日本が量産したものだ。
その意味で戦後日本の繁栄は、冷戦体制の中でアメリカの「盾」となったおかげだが、1990年代に冷戦が終わると盾の意味はなくなった。平成から日本経済の急速な没落が始まったのは偶然ではない。日本の不良債権処理は10年以上かかったが、アメリカがそれを救済することはなかった。