安倍の村山談話に対する違和感、より正確にはそこに示される歴史認識に対する違和感はおおよそ、次のような点に凝縮された
まず、先の大戦においては日本だけに焦点を合わせるべきではなく当時の世界の状況について語らなければならない。この戦争の背景にしても日本の責任にしても100年ほど遡った歴史の連続性の中で位置づけるべきである。「100年のスパンで歴史を捉え、当時の国際社会のありようを踏まえて議論を展開」しなければならない。19世紀末、「世界に帝国主義諸国の植民地が広がる中で、日本は何とか必死に独立を守り抜いてきた」そのような世界からの作用があって、日本の反作用があった、その闘争の中での日本の歩み」という視点を持つべきだ。
次に、その歴史の中で何を、どう誤ったかを書くにしても、それを善悪としてとらえるのではなく、政策的な判断の誤りという観点で書くべきである。 「悪いことをしてすいませんということでなくて、政策を誤ったというのと、世界はどういう世界だったかということをしっかりと書いて。立派な人たちと戦ってましたということではなくて、政策を誤った、世界情勢を見誤った。それで敗戦した。同じことをやってはいけませんということを書かなければならない」
そして最後に、村山談話の言う「国策を誤った」という表現に関して、どの国策を誤ったかについての記述がまったくないことである。従って、談話の中の「心からのお詫び」が、一体、何に対しての「お詫び」なのかが説明できていない。
では安倍談話はどの国策を誤ったと言っているのか?『国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。』という部分でしょう。
中国外務省が岩屋氏の発言に関して発表したものを再掲しますが、「歴史問題では『村山談話』の明確な立場を引き続き堅持し、深い反省と心からの謝罪を表明する」と述べた、とするものでした。この説明は、安倍談話の域を越えていません。