資本の起源
雪だるまを作るには芯を作る。自分の手で雪を集め固めて芯を作ってから雪の十分積もった坂道にころがす。たとえの後段はともかく、前段は町の多くの実業家には当てはまる。しかし、18世紀のイギリスでは資本はある短い期間に大量に発生し、しかも最初の芯は最初からかなり大きかった(綿工業)。
それはどうやってできたのか? これが、本源的蓄積論のテーマである。
資本が利潤を求めて無限の循環運動をする。得られた利潤が再び投資に回り資本は成長する。それはわかった。では、最初の一回目の資本はどうやってできたのだ?
それは歴史に聞くよりない。理論の本である『資本論』に書かれた歴史の記述だ。第一巻の8編がそれだ。ここでマルクスは数々の実例を示すが、よく知られているのは、イギリスの、“囲い込み運動”の例である。農民に火をつけて追い払うなど様々な暴力が行使されたから、マルクスは資本は”血だらけ“で歴史に現れたと表現している。
しかし、この後、資本は“血だらけ”を卒業した、というのが通常の理解だ。雪だるまの芯を自分で、夫婦でコツコツ作った人たちもいたから、血だらけの話はさらに通用しなくなった。
資本家は質素である、禁欲ができる人、勤勉で計画性がある人、などなど新しいイメージが登場する。
こういうイメージにフレーザーは敢然と挑戦する。もちろん、マクロの話として。そして、優れて現代の話として。彼女は、収奪は常にあり資本はいつも血だらけだという。実は、 ハーベイもそうだ(D.Harvey、2020=2023、大屋定晴監訳、『反資本主義』、作品社)
ハーベイは第10章に「本源的蓄積」、第11章に「略奪による蓄積」をそれぞれ配置し、詳しく論じている。本源的蓄積は資本主義の初期だけに展開するのではない、今日もなお変わらず続いている(同上、P.180)。それは多くの場合、不法行為であるが、いわば資本の原罪なのであり、絶えず付きまとってくる。
ハーベイのような大家の言葉だが、やや納得しがたい。そう思うのは、私たちが日本という特別な国にいるからである。この国の資本と近隣の諸国の関係をよく見てないから、また、確かに日本には松下翁のような経営者が多かったからでもある。資本家の団体である経団連などを観察してみてわかるのは、だいぶ劣化したとは言え、その豊かな知識と見識である。
日本では、とっくに“血だらけの時代”は卒業しているから、国のかじ取りは資本家集団に任せてよい、多くの人はそう思うのである。様々なスキャンダルにもかかわらず保守勢力が人々の支持を得ているのは、こういう背景もある。でも、ハーベイは言う。それは世界を見てないから、国内でも隠された秘められた部分に目をつむっているからだと。
妥当と思われる賃金を払って搾取の世界だけで調和する、それが成立しないことを主張したのは、20世紀初頭に活躍したドイツ社会民主党の指導者、ローザ・ルクセンブルクである。彼女は蓄積論上の難点を、実現問題として提起した。拡大再生産で拡大した分をだれが買うのか?(ローザ・ルクセンブルク、1913=2011-2017、小林勝訳、『資本蓄積論』、御茶の水書房)
最低賃金の労働者? 彼らの数はすぐには増えないし、一人一人に余計に消費する余裕もない。ハーベイは解説する。
「ルクセンブルクが描いたのは、周辺部における本源的蓄積の継続を目的とする植民地支配体制である。本源的蓄積は、資本主義の運動に全周辺部が吸収されるまで無限に続く。」(ハーベイ、P.194)
ヨーロッパの先進国がアフリカや東南アジア諸国で展開した(している)、鉱山、現地工場、プランテーションで働く労働者に何が起こっているか? そして日本国内で時折報告されるブラック企業の実態などを聞けば、ハーベイの言い分は否定できない。
フレーザーはさらに進む。収奪は継続しているだけではない。それが搾取を支えている、しかも二重の意味で。
最初の一つはローザ・ルクセンブルクが提起したことだ。世界のどこかで、本源的蓄積が行われ、“自由“な労働者が生み出されている、つまり搾取の対象が再生産されている。
もう一つはフレーザーの独自の主張だ。彼女は先進国で下がり続ける利潤率に注目する。利潤率を上げようとしても、労働者の抵抗で賃金は下げられず、搾取はもはや限界だ。経済の領域にある搾取の機構だけではもはや利潤の高さは維持できない。多くの先進国の状況が世界市場に、途上国に反映する。この構図は国内でも生じる。
ハーベイは言う。
「現代資本主義は、生産における生きた労働の搾取による蓄積ではなく略奪による蓄積にますます依存しつつある。」(ハーベイ、P.197)
信用制度は、資本の運動の資本の運動の効率化のためにあるのだが(『The NEXT』の第5章)、今度は略奪の促進に貢献する。略奪の矛先が企業そのものに向いてくると信用の役割は俄然大きくなる。敗退しそうな会社を買う、ローン返済ができず手放した住宅を大量に買う。そう、あのブラックストーンのように(注1)。人々が苦しむ危機が彼らの金儲けの絶好のチャンスになる。
(注1)この会社は、未公開株売買では世界最大級である。もちろん日本にも進出している。
線引き、限界「ブラックストーンは短期間に、世界一とは言わないまでも、アメリカ一の大地主になった。同社は現在、何千もの住宅を所有して貸し出すことで、高い利潤率を確保している」(ハーベイ、P.188)
フレーザーは搾取と略奪の対象者を分ける線引きがあるという。この線はおおかた人種差別のそれと重なっている。資本主義は人種差別からも卒業できない。それには暴力が伴うから民主主義を標榜するのは難しい。しかし、この利益の源泉も、世界各地での反差別意識の向上、それへの規制の強化で、継続が怪しいのである。
植民地も第二次世界大戦後、ほとんど消滅した。社会主義が失敗して資本主義の市場に組み込まれたので、助かったかに見えたが、それも一時的だった。メインの領域の利益を維持するために副の柱の領域での略奪を強化すると、これ自体が弱っていく。これが彼女の言う“共食い”である。自分のしっぽを食べてしまうウロボロスだ。