前にも書いたとおり、それは歴史というもの――いまとは「常識」自体がずれていた過去の記録を、残し、覚えておくことの意義でもある。

資料室: ポリコレは、いかに「歴史学と反差別」を弱体化させたか|Yonaha Jun
一昨日の辻田真佐憲さん・安田峰俊さんとの配信は、議論が「歴史を語る際のポリコレの流行は、ある意味で欧米の中国化では?」という地点まで深まって面白かった。無料部分のYouTubeもこちらにあるので、よろしければ。
【ゲスト回】安田峰俊×與那覇潤×辻田真佐憲「実は役立つ中国史を再発見せよ 『中国ぎらいのための中国史...

ぼくがアフリカの出身でないことが大きいのだろうけど、個人的にやっぱり、色んな限界があるにしたってバンド・エイドの曲は好きだ。だから毎年、この季節にはけっこう聴く。

歴史が残した資料だと思って接することで、今日の基準ではすべてを肯定しにくいものの中にも、当時の人が込めた精いっぱいの善意を聴きとることができる。そうした体験ができる人だけが、歴史を生きている。

逆に、歴史を生きているせいで、昔のようには素直に聴けなくなってしまう曲もある。いい歌なんだけど、発表された当時の世界の空気がもう喪われてしまったりしていると、切なくてつらくなってしまうのだ。

マイ・ベストワン・「冷戦終焉ソング」である、英国のバンドDeacon Blueの”All Over the World” (1993年)が、たとえばそれだ。

All over this land, people are waiting, to enter the world, like a new-born baby…

こう歌われたとき想定されていた土地は、いまや世界で最も「彼らはクリスマスだと知っているのだろうか?」と思われるようになってしまった。ぼくも戦争の前は知らなかったけど、そもそも「いつがクリスマスなのか?」をめぐってまで殴り、殺しあっているから、もう収拾がつかない。