ところで、「磔刑像のイエス」か「イエスなしの十字架」かは、どこに信仰の重点を置くかで答えは変わるが、イエスの十字架救済をその信仰の核とするキリスト教会で十字架を廃止すべきだという声も聞かれる。

「十字架廃止論」の背景には、一部のキリスト教徒や宗教思想家は「十字架は偶像崇拝に陥る危険性がある」と指摘する。旧約聖書のモーセの十戒では偶像崇拝が禁じられており、十字架や聖像の使用がこれに該当すると考えられるわけだ。それゆえに、一部のプロテスタント系教派では、十字架の使用を控える傾向がある。

また、現代社会では、宗教的多様性や世俗化が進んでおり、十字架が特定の宗教の象徴として他者を排除する可能性があると考えられる。特に公的な場(学校や政府機関など)での十字架の掲示に対する是非が欧州社会では議論を呼んできた。十字架が「キリストの受難と死」の象徴としての側面が強調されすぎると主張し、十字架の使用を見直すべきという声が聞かれる。

参考までに、「十字架の廃止論」には、感情的、象徴的な側面だけではなく、神学的な指摘が含まれている。イエスの十字架は神の苦悩を象徴し、神の涙をもよおす。それを象徴する十字架を掲げ続けることは適切ではない。また、十字架は神の栄光や力を表していない。むしろ、イエスの磔刑像ではなく、より栄光に満ちた復活や天上のイエスを象徴とすべきだといった主張だ。

十字架は人類の罪の結果であり、それを記念することは人間の失敗や罪深さを繰り返し思い起こさせる。十字架上のイエスを強調することは、むしろ希望ではなく悲劇に焦点を当てる、というわけだ。

問題はもう少し深刻だ。イエスの十字架は必然だったか、というテーマだ。キリスト教の教えでは、イエスの死は偶然の悲劇や不幸な出来事ではなく、神の救いの計画の中心であるとされている。十字架は、神が人類の罪を赦すために自ら進んで選ばれた道であり、神の愛の究極的な表現として理解されている。