キリスト教のシンボルの十字架には「イエスの磔刑像」を表示した十字架と「イエス抜きの十字架」の2種類がある。キリスト教の信仰からいえば、迫害され、極刑された「受難のイエス」の十字架と、十字架の3日後、復活した「希望のイエス」を表示した十字架だ。
「イエス抜きの十字架」を求める声がある。その理由として、イエスが十字架にかけられた場面(受難と死)よりも、「復活」を強調すべきだというわけだ。
「イエス抜きの十字架」は、キリストが死を乗り越えたことを象徴し、救いと希望を示すものとして解釈される一方、十字架にかけられたイエスの姿は、多くの人に「苦痛」「悲しみ」を連想させる。幼児が教会で磔刑のイエスをみて「イエス様が可哀そうだ」と呟いたという話を聞く。「イエス抜きの十字架」は、特定の宗派や伝統に縛られない普遍的な救いのシンボルとして解釈される。
一方、カトリック教会や多くの伝統的な教派では、キリストの受難と復活は切り離すことができない。十字架にかけられたイエスの姿(磔刑像)は、人間の罪のために犠牲を払ったという救いの核心的な教義を象徴している。
「イエス抜きの十字架」に焦点を合わせすぎると、苦難や犠牲の重要性を軽視する危険が出てくる。イエスの磔刑像は、初期教会以来、信仰の深い象徴として使われてきた。この伝統を変更することは、教会の歴史や文化的アイデンティティを損なう可能性が出てくるといった懸念が出てくる。
「イエス抜きの十字架」は復活の象徴としてキリスト教の希望と勝利を表している。このため、復活祭などの場面では「イエスなしの十字架」が使われることが多い。一方、「磔刑像のイエス」はキリスト教信仰の核心である受難と贖いを強調する重要な象徴だ。
だから、カトリック教会内では、「磔刑像のイエス」と「イエス抜きの十字架」を場面や用途に応じて使い分ける。例えば、典礼やミサでは「磔刑像イエスの十字架」を用い、復活祭などの祝祭的な場では「イエス抜きの十字架」を使用する、といった具合だ。