- 「ケアロール」と「兵隊ロール」、どっちが大変とかどっちがエライとか言い出した時点で社会全体の敗北
で、さらに考えないといけない問題は、
・「世界のあらゆる仕事が非グリーディジョブ化できる」のか? ・そしてそれは望ましいことなのか?
っていうコレなんですよね。
「できる・できない」の話でいうと、そもそも国際競争の中でどこの国でも「競争に勝つための分野」に関わってる人間は死ぬほど働かせた上で、競争相手の弱体化を狙って「グリーディジョブはやめましょう」というポーズだけは取る・・・みたいな事になりかねない問題がある。
進学校の生徒がテスト前に死ぬほど勉強しておきながら、ライバルの前では「昨日一日中遊んじゃってさあ」みたいな事を言っておく(笑)・・・みたいなしょうもないバトルは今後必ず起きるでしょうからね。
さらに、その「できる・できない」の話を抜きにしても、「ありとあらゆる職業を非グリーディ化しなくてはならない」という発想が望ましいのか?という大問題があるんですよね。
人生それぞれ、あらゆる個人が生きたいように生きてる世界があって、「打ち込みたい仕事」がある人がいて、それが自分の使命だっていうような人がいたとして、
いやいや、家庭とバランスする生き方以外認められません。あなたは人間として欠陥品です
…みたいなことを言うのがそれでいいのか?みたいな話ってあるでしょう?
また、逆に、「性別による役割意識の押し付け云々」みたいな話を一端横に置いてみれば、
自分は社会の中での仕事にそこまで意義を見いだせなくて、家庭内でちゃんと子育てとかしっかりやる方が性に合ってるし、役割として向いてると感じています
↑こういう人に無理やり「いや、仕事をしてない人間は一人前とは認められません」みたいなことを強弁する事が果たしていいことなのか?という問題がある。
むしろ、男女どっちでも「死ぬほど働きたい」人と、「仕事は興味ないから家庭を守りたい」人がいたとして、そこにカップリングが生まれるのを他人がどうこう言う意味はあるのか?という話になる。
この点における「アメリカのリベラルの発想」の中には、埋め難く「社会で活躍して一流と認められてない存在は無価値」という価値観が埋め込まれているところがあるんですよね。
ゴールディン氏の本を読んでいてもそれは「隠しきれない」感じとして出てくるところがあって、色んな職業について「一流の職業」とか「ほどほどの地位の職業」とか結構考えようによっては差別的な用語を使いながら「明確な序列感」を持った話し方をするところがある。
ただし、「アメリカ」のエライところは、こういう「一流」と「それ以外」を分けて暗黙に序列化するような発想を隠しきれない「リベラル」がいると、それに対して徹底的に批判する勢力もまた現れるところなんですよね。
昔ヒラリー・クリントンが、「自分は家でクッキーを焼いてるようなしょうもない人生は選ばなかった」的な趣旨に取られる発言をして大問題になってましたけど、
・主婦・主夫業を選ぶのもその人の人生の自由な選択 ・男女問わず”バリキャリ”を選ぶのもその人の人生の自由な選択 ・どちらも等しく「尊い」のであって、どちらかを蔑視するような発言は良くない
こういうのが「あるべき姿」であるはずですよね。
要するに、「死ぬほど働いて富をもたらして国を回す”兵隊”ロール(役割)」の人もいればいいし、そういうのは別に好きじゃないから「ケアロール」みたいな事をやる人生を選ぶ人だって全然いていい、というのが「望ましい状態」のハズ。
そして、「アメリカという磁場」には、「各人が絶対自分という個人を譲らない」ことによって、全体としてこういうバランス↑が”結果的に”実現するダイナミズムが存在しているんですよね。
そして「アメリカのリベラル」はその「理想状態」のうち「半分」しか代表できていないからこそ、4年に一回国を割るような大問題に発展して世界中の人々をハラハラさせてるわけですよね。
要するにこういう「アメリカのリベラルの公式見解」の中に、「ヒラリー・クリントンのクッキー発言」型の、「ケアロールへの蔑視」「”一流の”兵隊ロールへの称賛」が不可避にビルトインされていて、それが余計な感情的対立を生んでいるわけですよ。
もちろん、「滑走路段階」にはそれでいいけど、いかにそれを社会の末端まで押し広げていくのか?という「飛行段階」に入った以上は、その「アメリカのリベラルの悪いクセ」をそのまま直輸入するんじゃなくて、「その先」を目指して動かしていかないといけないわけですね。
「グリーディジョブの非グリーディ化」みたいな、「資本主義の最前線の仕組みで無理なく解決」ができる分野はそうしていけばいいけど、できない分野も当然残り続けるわけですよね。
そして、そこはもうアメリカみたいに野放しでスラム的になっちゃってもいいじゃんって形にしないために、日本社会の中には「兵隊ロール」にしろ「ケアロール」にしろ、「頑張って破綻を防ぐ献身」をしている人たちがいるわけです。
確かに今までの日本社会では「兵隊ロール」の人が威張りすぎていた側面はあると思うので、「ケアロール」側の反乱みたいな事がバランサーとして必要だった側面はあるけど、だからといって「兵隊ロール」の必要性ごと否定しはじめると、それは「同レベルのアンフェアなことをただやり返してるだけ」になっちゃうわけですね。
そこを協力しあって穴を防ぐ動きをちゃんとやっていきつつ、一方で「グリーディジョブの非グリーディ化」みたいなプロセスは粛々と進めていくような、そういう協力関係を作っていくことが今必要なことなんですね。
- 怨念バトルの先にある「静かな革命」を目指せ
とはいえ、この記事を読んだからといって、「明日から新しい協力関係が生まれる」とも思ってないし、相変わらず「怨念の投げつけあい」がしたい人はしておいてもらうことも「静かな革命」の不可欠なプロセスだと思っています。
「アメリカのリベラルの直輸入」で、「お前たちは遅れている!」って高圧的に言い続けたい人はそうすればいいし、ただしそういう人たちの発想の中にあるローカル社会の細かい事情を真摯に受け止めて具体的な改善に踏み込むことを決してしない
『罪』
は、自業自得にそのムーブメントに「アンチ」として襲いかかってくることを止めることは決してできない。
それは「ヒラリーのクッキー発言」に関連する色々な問題のように、「アメリカという磁場」そのものが発している当然の反作用というか、「真実を指し示すエネルギー」みたいなところがあるからです。
「どちらか」だけが「歴史の正しい側」とか主張して、最後まで「押し切って」しまうことは決してできない。なぜなら、その「逆側に立つ人たち」も、「アメリカレベルの政治主張のパワー」を完全に”等量”持っているからです。
とはいえ、「反リベラル」が行き過ぎて「何も変えないのがいい」みたいになってもそれはそれで問題なんで、そっちはそっちで『罪』を抱えているわけですよね。
女性の社会進出は当然のように進む中で、その「状況変化」に対して適切なフォローができないような言説もやはりあるレベルを超えて社会全体で共有することはできないからね。
だからこの「怨念のぶつけあい」は徹底的にやり続けることで、どんどん「どっちもどっち」な状況を白日の元にさらしてもらう必要がある。
イデオロギー的純粋さに引きこもってローカル社会の細かい実情に向き合う気がない傲慢さの『罪』も、ローカル社会の事情を隠れ蓑に時代の変化にただ抵抗し続けるだけの『罪』も、そのあまりの同レベルの”しょうもなさ”を満天下に晒すまで怨念のぶつけ合いをやり続けてもらう必要がある。
「静かな革命」はその先にやってくる。
だから、「怨念バトル」は「怨念バトル」としてずっとやりたい人はやっておいてもらえばいいんですが、「それとは別の場所」で、ちゃんと「メタ正義」的な具体的なミスマッチの解消を積み上げていけるかが大事なんですね。
その「転換」を起こしていく上で、女性の「世代差」は非常に重要な分岐点になってくると思います。
下記記事でゴールディン氏の研究の話をした時にも出てきましたが、女性というのは世代によって「見えている世界」が全然違うんですよね。
50代ぐらいで「社会進出したかった女性」の中にはかなり「社会全体への怨念」みたいなものを抱えている人も多いけど、「普通に社会進出」している若い世代の女性のニーズはもっと具体的になっている。
これは日本の場合においても同じで、上記記事にも書いた通り、私が「文通の仕事(詳しくはこちら)で繋がっている女性の話をすると、「20〜30代の現役あるいはこれから子育て世代」と「40代〜50代女性」の「日本の会社」に対する感覚やニーズはかなり違うんですね。
だから、「上の世代の女性」は、具体的ではない「日本社会への怨念」みたいなものに駆動されがちですが、「下の世代の女性」は、「具体的な制度上のミスマッチ」について解消してくれさえすればいいと思っている感触がある。
これからの日本でやっていかないといけないことは。
「アメリカのリベラルが言ってることをそのまま輸入して社会の末端が崩壊状態になる」ような動きには徹底的に抵抗して阻止しつつ、その「若い世代の女性が感じている具体的な細部のミスマッチ」には真剣に対応していくこと
↑この動きが安定的に作動するようになってくれば、大部分のフェミニストも、反フェミニストも、まあまあ満足できる新しい着地点を見出していけるはず。
そして、「欧米的な理想が人類の半分から全拒否にされかねない」今の情勢においては、そうやって「過剰なイデオロギー論争のためのイデオロギー論争を抑止し、具体的な細部のミスマッチの解消だけに集中するという倫理観」が、世界中から「21世紀の最新型の良識」として必要とされるムーブメントに育てていけるでしょう。
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単に「幻想の中の欧米」を持ってきて「日本って遅れてるよねえ〜はあ〜嫌だわ〜」みたいなことしか言わないムーブメントが、「その社会」のあるレベル以上の広い賛同を得られるわけがないじゃないですか。
そういう態度が今の人類社会を真っ二つに割ってしまっている元凶なんですよ。
「日本社会の場合」をちゃんと個別具体的に積み上げる姿勢を見せて、両側の事情が解決される種々のミスマッチの解消が積み上がっていくことによって、「リベラル教の狂信者の外側」までその「理想」にコミットしてくれるようになる。
先日の、一橋大学の橋本直子先生との対談でもそういう話が出ていましたが…
要するに、たまにSNSで「スカッとした」的に話題になる、「女のクセに…」みたいな事を言う時代遅れのオッサンみたいな話は、今の日本では急速に消えてきているし、それをさらに推し進めたければ、「日本社会の側の事情」とちゃんと双方向的なやりとりと工夫の積み上げができる状況に持っていく必要があるんですね。
そうすれば、「女のくせに」みたいなことを言うオッサンだとか、痴漢の問題がどうこうとか、そういう問題を、「意識高い系の内側」だけじゃなく社会の隅々まで「抑止力」を働かせて解決していくことが可能になる。
ちょっと追記なんですが、この記事に関して橋本先生からツイッター(X)でコメント貰って、そこに「欧米的欺瞞」っていう言葉があって、それこそが今まで黙認されてきたけど、この世界情勢の中で直視しなくちゃいけなくなった「問題」なんだよな、と思ったんですね。
橋本さんの言う『欧米的欺瞞』と『欧米の理想の一番良い部分』をいかに分離して、そこにある権力の非対称性を自覚した上で丁寧に変えていくか事が大事なんだ、というのが橋本さんとの対談の最大の学びだったし、ガザ情勢で我々が直面している本質なんだと思いますね。コメントありがとうございます! PZy4Op5
— 倉本圭造@新刊発売中です! (@keizokuramoto) November 25, 2023
今のイスラエル情勢なんかを含めて噴出してきている「欧米という存在が持つ欺瞞性」と「欧米の理想の一番良い部分」がごちゃまぜになってしまわないように”適切に選り分けて扱う”ことこそが、今最も必要な、そして「日本こそがソレにチャレンジできる」課題なんですよね。
欧米のように「一握りの意識高い系があまりに断罪しまくるせいで社会の逆側に強烈なアンチが生まれている」ような状況に持っていかないためにも、ここで「あと一歩リーンイン」して日本社会に関わる方法について真剣に考えるべき時が来ているわけです。
「欧米が人類社会のほんの一部に落ちぶれていく」時代に、「欧米的理想」が消し飛んでしまわないようにするために、今最も必要な最先端のチャレンジをやりきる使命が、日本社会にはあるというわけです。
その「静かな革命」のプロセスについて、詳しくは以下の本の後半に詳しく書いておいたんでお読みいただければと思います。
『日本人のための議論と対話の教科書』
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2023年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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