10月末に、今年のノーベル経済学賞になったクラウディア・ゴールディン氏の「男女の賃金格差の研究」を日本に当てはめるにはどうしたらいいか?という記事を書いたんですが、その後その記事に関連して、2021年1月に日本のネット論壇的なもので、「反”フェミニズム”論客」と「シカゴ大学社会学教授」との熱いバトルがX(当時はツイッター)で行われていたという話を聞きました↓。
これ、論戦相手の名前は「女子大生起業家」とか書いてあるけど多分女子大生ではなくて(笑)、今はthe X-manという別の名前になっている匿名アカウント(昔”ショーンKY”という名前だったはず)と、シカゴ大学の本物の(っていうのも変だが)社会学教授の山口一男氏との論戦なんですが。。。
ふざけたハンドルネームの匿名アカウント(しかも”いわゆる典型的なフェミニズム論調”には批判的)と、「シカゴ大学の社会学教授」の論戦と聞くと、そもそも読む気なくなる人も結構いるかと思いますが、これがなかなか、この問題に関する重要な論点を数々指摘していて、非常に考えさせられる論戦になっていました。
前半は受け入れられる人は限られるタイプの議論をしていますが、後半は色々な「欧米におけるフェミニズムの重要文献」なども的確に参照したかなり考えさせられるポイントが多数ある記事なので、ぜひ「フェミニズム寄り」の人も一度我慢して最後まで読んでみるといい論戦だと思いました。
本質レベルの話をすると、”ショーンKY”氏の意見は、山口一男氏のような「典型的なアメリカのリベラルの理想」を非欧米社会において実践していくにあたっての”注意ポイント”を指摘しているところがあって、本当は別に「敵同士」という感じでもないはずなんですね。
別に全否定合戦をし続ける必要はなく、「なるほど、そういう懸念点はありますね。じゃあ日本の場合こうしていけばどうですか」っていう双方向のやり取りが進むようにしていきさえすればいい。私はこういう発想を「メタ正義感覚」と呼んでいます。
一方で問題なのは、「ショーンKY氏」(というよりそれを持ち上げる反フェミニズム傾向)だけしか存在しないと、日本においてはもう女性活躍とかやめちゃおうぜ、みたいな話になりかねないところがある。
そこまで行ってしまうと、人口減少時代の経済合理性みたいな話でも大問題ですし、本来社会で活躍したかった女性を抑圧しているという「そもそも論」的にも望ましくありません。
それは困るからと、山口一男氏型の「ある種の典型的なリベラル層」は「いつも同じ話」を延々とする結果になり、だんだん相互憎悪が募ってお互いに協力して現実社会を変えていく動きが余計に阻害されてしまう。
でもね、今の時代、日本における経団連的な団体というか、「経営者層」みたいなレベルの人たちですら、何らかの形で女性幹部を増やそうといろいろ頑張ってる状態まで来ているわけですよね。
「ダメな営業マンあるある」みたいな話として、相手が既に買う気になってるのに、さっさと具体的な手続きの話に進まずに延々と「この商品を買うメリット」を大演説し続けて相手の買う気を失わせる・・・みたいな話がありますけど。
「相手がその気になってる」段階まで来たならできるだけ「具体的なミスマッチ」の解消に進むべきで、そこで細かい事情のすり合わせを行っていく事から逃げて大上段のお説教で感情的対立を煽りまくるのとかが徐々に機能しなくなってきている現実があるなと思います。
以下は私の本で使った図ですが、社会に「そこに問題があると認知されるまでのフェーズ」と、「認知されてから解決に向かうフェーズ」では必要な態度が違うんですね。
「問題が認識される」までは、細かいことはとりあえずおいて「間違っている!」という事自体を非妥協的に主張し続ける勢力が必要なんですよ。(上図でいう”滑走路段階”)
でもいざ「問題が認識される」ところまで来たなら、両側の事情を持ち寄ってその課題を具体的に解きほぐし、色々なミスマッチを解消して解決に向かわないといけない。(上図でいう”飛行段階”)
既に「飛行段階」に達しているのに、延々と「単純化した敵側全否定のナルシシズム」に酔ってる勢力しか「改革派」の内側にはいません・・・という状況が続くと、だんだんその「改革」自体に対する大衆的賛同意識ごと崩壊してしまう危機に陥る。
さっきも言ったとおり、今や経団連的な「経営者層の集まり」みたいなレベルのほぼ共通した意志として、社会で活躍している女性を増やそうという合意ができているところまで来ているわけですよね。
そしたら今必要なのは、「日本で働いている女性」と「日本の企業や社会」の間にどういうミスマッチがあって、それぞれどういう事情があって、どうすればそれを解決できるのか?についての具体的な積み上げです。
そういう「具体的な積み上げ」をやっていくには、ジェンダーギャップ指数みたいな何もかも丸めて一緒くたにしてしまっていて数々のアンフェアさが指摘されている数字の比較ではなく、もっと解像度を上げて具体的な細部の問題を根気よく潰していくムーブメントを丁寧に行っていく必要がある。
「典型的なアメリカ型のリベラルの発想の単なる直輸入型のゴリ押し」 vs. 「”現実主義”の皮をかぶった単なる女性差別」
…みたいなしょうもない争い事を放置していて社会が良くなるはずがない。
言ってみれば日本社会に対してフェミニズム的運動側が、「あと一歩リーンイン」して関わっていくべき課題がここにある。
というわけで、そういう時に、
・山口一男氏型の「典型的なアメリカのリベラルの直輸入の議論」のどこに日本社会との齟齬があるのか?をショーンKY氏の議論を参照しながら考察する。
・次に、「滑走路段階を超えて飛行段階に入った」課題を、さらに日本社会の中で具体的に解決に持っていくにはどういう議論が必要なのか?について提案を行う
…のがこの記事の狙いです。
1. 「アメリカでできてるんだからできる」は注意が必要「典型的アメリカのリベラル」の間違いは、上記のツイッター論戦でも山口一男氏は何度も主張していますが「アメリカでできてるんだからできて当然」という論法なんですよね。
これは、「とりあえず問題が周知されるまで(滑走路段階)」では必要な時もある態度ですけど、いざ日本社会の大勢がその気になっていて「具体的なミスマッチの解決をたくさん積み上げる」ことが必要になっている段階(飛行段階)においては百害あって一利なしってレベルで有害なんですよ。
理由は2つあって、
A・アメリカが完全に捨ててかかってる短所(社会の末端が崩壊状態なこと)まで日本が真似する事になっていいのか?という部分
…というパターンと、
B・そもそもアメリカ自身が言ってることとやってることが全然違う(笑)という部分
なんですね。
2. 「アメリカが捨ててかかっている部分」との表裏一体での判断が必要「アメリカのリベラル」が言っていることを非欧米社会で実現していくにあたって一番注意しないといけないのが、アメリカっていうのは「ある面は世界最高、ある面はかなり最悪」な国だってことなんですよね。
そしてその部分は明らかに表裏一体になっていて、
「アメリカの悪い部分みたいにならないようにするその社会の必死の抵抗運動」 が、 「アメリカのリベラルから見ると許されざる後進性」 に、 ”見える”…
↑こういう現象ってかなりたくさんあるんですよね。
現代人類社会における「アメリカの影響力」ってやはり凄いので、放っておくとあらゆる社会が「アメリカ化」していく中で、そういう「アメリカ型の理想を語る」というのはそれ自体非常に「権力性」があるんですよね。
だからこそ、まさにポリコレ用語でいう「権力勾配がある時にトーンポリシングするな」っていう話で、「アメリカのリベラルの理想を押し込む」にあたって、「非欧米社会側が抱えている事情」について、単に反発の「言い方」を否定しないで「内容」をリベラル側が迎えに行く必要が出てくる。
例えば、日本の私立医学部入試で男女差別があった、みたいな話があった時に、もちろん「改善していきましょうね」っていう合意が今の時代は当然取られるわけですけど・・・
その時に、それが単に「日本社会が女を虐げたいからそうしてるんだろう」みたいな発想でいる限り、「この問題の本質」には決してたどり着けないじゃないですか。
昔、「女性医師も厳しい労働環境の診療科で頑張って働かないと、今後女性医師が増えたら医療崩壊してしまう。それはわかってるから頑張ろうと思ってたけど、私だって結婚したいし子供もほしい。だから申し訳ないけど私はラクな診療科に行って今の彼氏と結婚します」みたいな記事が出ていて凄い印象的だったんですよね。
私が医療崩壊のトリガーになる未来
で、もちろん、そもそもそういう「男性医師の過剰なハードワークなしにも医療制度が成り立つようにすることで、女性差別をしなくても済むようにしていくべきですよね」という方向に持っていくべきだし、ノーベル経済学賞のゴールディン氏の示唆もそういう方向ですよね。
でもそういう時に、「アメリカでできてるんだから日本でできてないのは日本の男が差別的だからだ」みたいな話をしていたら、本当にその解決にむかえるわけがないじゃないですか。
じゃあアメリカみたいに貧乏人はマトモな医療が受けられない社会になってもいいんですか?ってことになるでしょう?
そりゃそれ試験受けてる18歳とかの女の子にそこまで考えろって話じゃなくて、実際に大学教授だったり社会運動家だったりで世の中がある程度見えているフェミニズム活動家は、ここで「あと一歩リーンイン」するべき、しないといけない領域があるんですよ。
「なるほど、じゃあ女性差別しなくても良くなる医療制度改革をしなくてはいけないですね」
…ていう方向にちゃんと旗を振ってくれないと、「アメリカでできてるんだからできないのは差別主義だ」みたいな話しかしてないと、「あのアメリカの医療と一緒にするなよ」って話になる。
そうすると結局、
貧乏人でも地方でも一定以上のクオリティの医療を受けられる権利 vs. 一部の恵まれた女性の女性医師がキャリアを追求できる権利
…の「あれかこれかどっちかを選べ」っていう構造になってしまう。
「アメリカのリベラル」が紋切り型の「お前たちは間違ってる、遅れてる」をやると、社会のあちこちでこういう「本来必要なかった対立構図」を生み出してしまう。
「アメリカのリベラル」の立場に立っている人は、「アメリカでできてるんだからできないのは差別」って言ってる時に、実は、
貧乏人でもマトモな医療を受けられる権利 vs. 私立医大に進学できる恵まれた女性のキャリアのどちらを取るか?みたいな二者択一を迫ってしまっているのだ
↑こういう自覚が必要な時代になっているんですよ。
そりゃ抵抗されますよね?で、多少口汚い批判というか悪口雑言も飛んでくるでしょう。
でもそれは、「覇権国家アメリカの流行」という錦の御旗が持つ権力性の圧倒的なパワーを考えると、ポリコレ用語でいうところの「権力勾配がある時にトーンポリシングするな」の精神で、「その反発の出処」を考える責任があるわけです。
そしたら、
「医療制度をどうすれば、女性医師の働きやすさにちゃんと配慮しながら、日本人が満足できるクオリティの医療を万人に向けて受け入れ可能なコストで実現できるのか?」
こういう根本課題↑に議論を集中させていくことまでリードするのが、「アメリカのリベラル」の本当の責任だってことがわかってきますね?
ミクロに見た時の「医学部試験の女性差別」は解消しましょう…というのは全然妥協しなくていいけど、その先の「方法」を考える時に、ちゃんと「マクロの問題」については真剣に実務家さんたちに働きかけて共同戦線を作るようにしていかないと、結局ミクロな部分の怒りも抑圧せざるを得なくなってしまうんですよね。
そうしないで「ジェンダー村」の内側だけに籠もって「差別主義者どもが全ての元凶だ」っていう怨念を純粋培養するだけの集団の事が、社会の広い範囲から賛同されるなどということはありえないわけです。
この「医療制度」の例は一例ですけど、「アメリカのリベラルが描く理想」っていうのは常に、「とにかく理屈どおりをゴリ押しして、その結果アメリカ社会の末端が崩壊状態になってもOK」という矛盾が内包されていることに注意が必要なんですね。
だから、ただ「リベラルの理想を押し込む」だけだと反対が巻き起こって押し合いへし合いになって当然なんですよ。(アメリカ国内でだって4年に一回大問題になってるし、今の人類社会の半分以上からそもそもそういう理想ごと全拒否にされかねない状況になっているじゃないですか)
でも、ちゃんと責任持って「私立大学医学部の差別問題を解消するために、”医療制度改革”まで踏み込む」姿勢をデフォルトにしていけば、そもそもこういうしょうもない二項対立を超えていく可能性が生まれるでしょう。