『高田保馬リカバリー』の経験
高田よりも66歳下の私は、富永健一をはじめ数人の先学と研究仲間の協力を得て2003年に生誕120周年を記念して、『高田社会学リカバリー』(単行本初収録論文、高田理論の紹介と概説、高田理論の応用と展開)を出版して、ささやかな高田再評価への道筋を示したが、日本の出版界も日本社会学界もそれ以降何の動きもないままであった。
かろうじて2022年に、高田75歳すなわち1957年10月から1958年3月にかけて『週刊エコノミスト』に連載された自伝『私の追憶』が、没後50周年記念として吉野・牧野編『高田保馬自伝「私の追憶」』のかたちで再編集され、地元の佐賀新聞社から刊行されただけである。
学術的には『高田保馬リカバリー』から20年が経過しても、やはり森嶋がいったように、「偉大な才能の持主が、正当な評価をかち得ずして時流と戦いつづけていた姿を思い出すのは痛ましい」(森嶋、前掲論文:190)という状態が続いてきたように思われる。そしてその「正当な評価」は生誕140年後の今でもきちんとはなされていない。
しかし、大正と昭和の時代に、社会学と経済学の両方で最先端を切り開いた高田の数多くの業績のうち、とりわけ理論社会学を貧血気味の現代社会学再生の素材とすることは、知的刺激を得るという目的からも、「少子化する高齢社会」が現実化した日本社会の理論化と処方箋を作成する上でも大きな意義がある。
高田より65歳年上のマルクスがもてはやされる
何しろ一方では、日本でいえば明治維新前後に書かれたマルクス『資本論』をタイトルにした新書(斎藤、2021)がベストセラーになっているからである。
マルクスが亡くなった年に生まれた高田保馬が「古い」のならば、マルクスはもっと「古い」はずであるが、日本の学界ではそのような時間観念がなさそうである。たとえばウェーバーは1920年に亡くなったが、その前年に森嶋が指摘した「大和」である『社会学原理』は出版されている。特に日本では、高田よりも19歳年上のウェーバー研究は水準が高く、現在でも盛んに行われている(佐藤、2023)。
社会科学の膨大な山脈を形成する高田理論の検証作業は時間をかけて行うしかないが、「感性」が社会学・経済学の作品を生みだした「理性」を支えているという今回の観点もまた、高田理論の継承と解明には重要だと私は考えている。
『学問遍路』からではまず高田晩年74歳の作品『学問遍路』(1957)を素材にして、(A)(B)の前提となる「学問論」をまとめておこう。
日本といふ国は学問的に植民地性のある故であるか、一の専門のレッテルをはりつけて、他の方面のことに興味を持つことを非難し、又はそれを認めまいとする傾向がある(同上:105)。
高田に関連づけると、京大学部生・院生時代には一つの専門として社会学を専攻したが、その後大学教師になると、徐々に社会学との兼担として経済史や経済学に移っていった。これは当時の大学には社会学教授のポストがなかったせいもあるが、本人の問題関心が徐々に膨らみ、社会学を主軸にしながらも、「他の方面」としての経済史や経済学にも力を注ぎ始めたことを意味する。
ただし、自伝「私の追憶」を読むかぎり、社会学から経済学への専門分野の拡張を非難されたようには思われない。おそらく36歳で『社会学原理』を出し、46歳で『経済学新講』(5巻)を上梓したことで、これら「大和」と「武蔵」の前にはいかなる論者も「他の分野」だからというような非難ができなかったのではないか。
加えて、現在の社会システム論に典型的なように、社会、政治、経済、文化などは結局のところ大局的には結びついていて、その結果「一の分野の探求は必然に他の分野につながってゐるからである」(:105)でもあった。分野の広がりは社会科学に占める社会学のもつ固有の特徴でもある。
社会学でも経済学でも膨大な研究書を生みだしたその延長線上に、社会学では先ほどの(A)グループの作品群に含まれる『社会学原理』と『社会学概論』を基盤とした社会関係、社会集団、基礎社会と派生社会、国家、勢力、世界社会、階級、第三史観(人口史観)、社会変動などへの様々なテーマ設定が行われた。
他方(B)としての経済学では、マルクス経済学、近代経済学、利子論、地代論、資本主義論、蓄積理論、社会主義、経済成長論、労銀、消費函数、ケインズ論、シュムペーター論など文字通り多岐にわたる。
もちろん今日ならば「他の方面」の事情は異なるであろう。たとえばその筆頭はテレビ出演であり、新聞や雑誌もまたそれに含まれることが多い。「テレビに頻繁に出演する学者は学界では相手にされない」という「格言」は、私も駆け出しのころから主任教授からよく聞かされたものである。
外国人の模倣、吸収、紹介を超える次に翻訳と紹介とオリジナルの研究成果との比較である。
『学問遍路』には、「外国語に関する劣等感が内容の劣等感となり、模倣、吸収、紹介といふことになってしまふ。先を争うて新著の紹介をすれば学界第一線人と見らるることは、三十年前とあまり変わらない」(同上:122)。
合わせて、「吸収のみに努力を集中する日本の社会科学は、病根すでに久しいといひたい」(同上:131)や「紹介と創説とを同一にならべて見るといふ弊風を除く必要がある」(同上:156)もまた、現在の社会学界では依然として当てはまる。
これらが書かれたのは明治大正昭和の前期ではなく昭和の中期である1957年であることを踏まえると、つくづく社会学も含む日本の社会科学の体質はこの100年間全く変わっていないことが了解される。
20歳代から高田作品を古書店で収集し始め、断続的に読んできた経験からすると、あれだけの語学の達人が刊行した翻訳書は30歳時点での『グロッパリ社会学綱要』(1913)だけであったことに気が付く。手に入る外国語文献も模倣、吸収、紹介のためだけではなく、可能なかぎりオリジナルな研究成果を出すための素材なのであった。
「大和」たる『社会学原理』では、「凡例」のなかにわざわざ「本文は私見の開陳に宛て、註は學説の引用、叙述、批評を以て充せり」と書いている。