そして母の逝去後には、
15.田の蛙 ゐまさぬ母を 思ふまに ふけにけるかな さえわたる聲
がある。この場所は生家であろうが、蛙の季語が春であること、そして「さえわたる聲」なので、詠まれたのは12月や1月2月の冬ではないと思われる。
春のある日、近くの田にいた蛙を見ながらなくなった母親を偲んでいたら、あっという間にその蛙が「ふけにける」すなわち逃げていき、行方が分からなくなった。しかし鳴き声がどこまでも澄みわたる情景が浮かんでくる。視覚と聴覚が合体している。
その後も、どこに行っても、何をしても、高田は終生母を憶う歌を詠み続けた。『ふるさと』から三首を選んでおこう。
1923(40歳)には
小濱温泉にて
16.多良岳や ながむれどはや そのはてに われを思はむ 母はゐまさず
がある。多良岳は長崎県と佐賀県の県境にある多良火山群の主峰であり、頂上には多良岳神社や金仙寺などがある。多良岳は三日月村の生家からは西方に当たるが、小濱温泉からは北方になる。その視線の先には生家があるのだが、そこで自分を気にかけてくれていた母はもはやいない。ここでは空間的な距離感が越えられない悲しみが詠われている。
1925(42歳)では
17.桃さけば たらちの母の 背恋し かへり得らるゝ 昔ならねど
というように、桃を食べる時にも幼い頃に母の背におんぶされた自分の姿を追憶する。しかし、もちろんその昔には帰れない。この時間の流れの無常さがどうにもならないほど悔しいと言っている。なお、桃の花の春だが、桃の実は秋の季語になる。秋の午後の一首であろう。
18.椋の葉の 散れども母を 思はざる この淋しさも 四とせなりけり
山を見ても、桃を食べても、そして亡くなって4年が過ぎて、椋の葉が散る情景においても、高田の母への憶いは強いものがあった。4年という月日が過ぎたにもかかわらず、晩秋の情景とともに、心の淋しさがずっと続いている。
1926(43歳)でも、
島原の町
19.旅にして われ思ふとも たらちねの まちておはさぬ ふるさとの家
と詠っている。島原だからそれほど生家から遠い町ではないが、旅先でもふるさとを偲ぶとその中には母親の姿があるであろう。現実はもちろん「まちておはさぬ」のだが、母親とふるさとは緊密に結びついている。
『ふるさと』の「跋」の末尾には、「長い間、病と戦ひ世と戦ひたる私の、今までの記録はこれである。昭和六年二月二十七日郷里の書斎にて」と記されている。連載第4回の「写真2」で紹介した書斎である。
「病と戦ひ世と戦ひ」ながら、この年までに社会学書の代表作をほぼ書き終えていた。森嶋通夫が「大和」になぞらえた写真2の『社会学原理』(1919)、『社会と国家』(1922)、日本初の本格的概論書『社会学概論』(1922)、『階級及第三史観』(1925)、『社会関係の研究』(1926)そして同じく森嶋が「武蔵」と称した『経済学新講』(全5巻、1929-1932)であった。
マルクス、デュルケーム、ジンメル、ウェーバーなどに比べればずっと新しく、生誕が同じ年のケインズとシュムペーターとは同時代の作品群なのに、日本の学界も出版界もこの80年間は「読まぬ論ぜぬ」を貫き通してきた。
(次回につづく)
【参照文献】
伊藤整,1956,『改訂 文学入門』光文社. 高田保馬,1919,『社会学原理』岩波書店. 高田保馬,1931,『ふるさと』日本評論社. 高田保馬,1943,『思郷記』文藝春秋. 吉野浩司・牧野邦昭編,2022,『高田保馬自伝「私の追憶」』佐賀新聞社.
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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