母の歌

父の歌と比較すると、母を詠んだ歌は非常に多い。『ふるさと』(1931)、『洛北集』(1943)、『望郷吟』(1961)の三歌集ではいたるところで詠われている。まず『ふるさと』から代表的な歌を選んでみよう。

高田は1914年9月(31歳)の時に、フランス語経済書購読担当として京都帝国大学法科大学講師に採用されて、大学教師生活が始まった。その年に、

8.秋の風 枕を吹けば 放浪の 子も思ふなり 母の白がみ

が詠まれた。高田でさえも大学院を修了して、1913年には『分業論』という単著を刊行していたにもかかわらず、大学のポストは社会学担当ではなく、経済学講義でもなく、「外書講読」しかなかったのである。

これは1960年代の高度成長期以降に、大学新設ラッシュで社会学のポストが着実に増えていった時代からすると、信じがたいことである。

放浪時代

「放浪」は文字通り定職が得られず、従って定住もままならず、結婚もなかなかできない状況を象徴することばである。上の句の「秋の風」が「放浪」と重なり合い、英語表現“He was wandering up and down aimlessly.”が浮かんでくる。

ただし、高田の暮らしはaimlesslyではなかった。というのは、年譜によれば、当時カーネギー平和財団の研究費で、「徴兵制度」と「その経済的影響」についての調査を行うために、全国の師団、連隊、鎮守府の所在地のうちから九州、四国、北海道のそれらを選んで出かけていたからである(『私の追憶』:53-55)。

その調査の合間に、テーマを「母の白がみ」としてこの一首が詠まれたのであろう。母親のクスはこの年73歳であったから、髪には白いものが目立つ年齢になっていたはずである。高田の述懐は続く。

「郷里には、七〇の老母、私のことだけを案じてくれるのに、何の孝養もすることはできぬ。大学内の空気は何となく重苦しい」(同上:76)。

その翌1915年に31歳で、神埼実業銀行頭取の三女きぬと結婚した。

そして1916年に、

小草

9.小さきは 小さきまゝに 花咲きぬ 野邊の小草の 安けさをみよ

が詠まれた。この歌碑が高田の母校三日月小学校の校庭に建立されている。

高田自らが数千にのぼる作品のうちから「一つあげよ」といわれるのなら、この一首であると明言した作品である(『私の追憶』:79)。本人による解説も詳しい。

「これは作った歌ではない。人類という雑草の一本としての私の心の中から、おのずからはきだした一首である。学校の空気は私にとって重苦しい ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一本の野草といえども安らかに紡がれる花を咲かせている。(中略)空元気は、いろいろ示してみるものの、いずれは土水因縁あり、相集まって成せるこの一つの生命、野草の花と私の書きだすものといずれは同じ類ではあるまいか」(傍点金子、同上:79-80)。

傍点の部分がすぐ直前にもあることにより、30歳までの「放浪」は高田には辛かった毎日だったのであろう。

伊藤整が『文学入門』で力説したように、「いろいろな生活の環境の変化に応じて、周囲の条件の許す限度まで力一杯に個性を発揮した時に、はじめて、その個人は生きている」(伊藤、1954:237)姿そのものである。

『社会学原理』はうっぷんの晴らし場

大著『社会学原理』の執筆の期間は、「一難つづいてその上にまた一難が重なってくる」(『私の追憶』:77)とした。そのためか、「事実上、『社会学原理』は当時の私のうっぷんの晴らし場であった」(同上:67)という記述さえある。また『社会学原理』が「反抗の書」(同上:116)でもあったと書いている。これこそが当時の高田の個性なのであった。

今日的な評価では、日本の理論社会学を世界標準に押しあげて、実質的に最初に日本社会学を体系化した『社会学原理』が、高田本人にとっては「うっぷん晴らし」ないしは「反抗の書」であったのである。

なぜなら、「京都大学内ではどっちに向かっても渺たる存在である、というよりも存在は認められない。物を書いても評価も反響もきこえてはこない」(同上:67)だったからである。「渺たる存在」とははるかにかすんだ状態のことであり、これは辛いものであったろう。

そして刊行した『社会学原理』を従兄に送る日に詠まれた歌が、

1919(36歳) 野火

10.柳の芽 少し靑みぬ ふるさとの 母見む日はや 指に足らずも(社会学原理を従兄に送るとてその扇に記したる)

である。約3年かけて、「うっぷんのかたまりであるとともに、人類社会形成という人道的熱情の結晶である」(『私の追憶』:68)を完成させて、従兄に送ったのである。なぜなら、一番世話になった長兄はその前年に亡くなっていたからである。

巻頭には「老いませる母上の喜寿の記念に」がささげられ、その裏には8の歌

あきのかぜ まくらを吹けば 放浪の 子も思ふなり 母の白がみ

ー 大正三年十一月下鴨糺森にて

として採録されていて、別の一首も付けられている。

この森嶋通夫が命名した「大和」でもあるこの大著とその延長上に書き下ろされた『社会学概論』(1922)こそが、日本の社会学の夜明けを告げる金字塔になった(写真2)。

写真2 社会学原理(注)『高田保馬リカバリー』(2003)の準備期間に、高田長女関秋子氏のご自宅でインタビューした際、「父の座右にあった本」として金子が拝領した。表紙裏に青インクで「著者」と記されている。

『社会学原理』は1919年2月刊行なので、「柳の芽が少し青めぬ」時期である。ふるさとにおわす母に会ってから、指で数えてもその数だけでは足りないくらい長い年月がたってしまったなあ、という感慨がそこにある。ちなみにその年の6月に高田は広島高等師範学校教授として広島に2年間住むことになり、ふるさとには帰れなかった。

『ふるさと』では10のすぐ横に、

11.ふるさとの 山はなづかし 母の背に 昔ながめし 野火のもゆるも

が並べられている。連載第2回目に短冊で紹介した歌であり、これもまた高田の代表作になっている。

「ふるさとの山」は繰り返し紹介した天山であり、「野火」は野焼きであることも連載第4回の12で触れた。望郷の景観として天山と野火が用いられ、それを母の背からながめた幼い頃の追憶になっている。「野火はもゆる」が春の景色は霞んでいない。むしろくっきりとした山の姿が見えてくる。

1920(37歳)でも

12.そのねいき かすかに耳に 通ふなり 夜ふけをさめて 母を思へば

が詠われた。深夜に目覚めて、在りし日の母を思い出したら、同居していたころの母のねいきが伝わってきたというのである。「ねいき、かすか、夜ふけ」でしんと静まり返った室内での思い出は生家での一コマであるが、思い出したところは広島の家である。

前年に刊行した『社会学原理』を携えて、高田は広島高等師範学校教授として赴任していたからである。そこでの暮らしは『私の追憶』に詳しい。週に経済原論2時間、社会学概論4時間、英語4時間であり、「広島2年、勉強はしなかったが伸び伸びと自由を満喫した」(同上:95)とある。

しかし、その自由が飽食をもたらし、「30年にわたる胃病の素地を作った」(同上:95)とも反省している。その結果、「物があり余って私は大病になって行く」、「飽満によって精神も肉体も蝕まれる」(同上:96)という自己診断が綴られている。

なお、前年の1919年に、

13.いつしかと 今年も秋の 風ぞ吹く 母とはならぬ 妻とわが身に

が詠まれた。これは、結婚が1915年であり、それから4年が経過したからなのだろうか。これを受けて、『私の追憶』では次の記述がある。

「新婚後六年間、京都の空気の中では子が生まれなかった。広島に来て山も川も伸び伸びと生活させてくれるところで、生命はひとりでに恵まれてくる」(同上:98)。

1920年に長女が誕生したのである。ここでも「母が郷里から出てきて赤ん坊をだいた時の喜びを今も忘れえない。私もやっと親孝行をすることができたと思ってほっとした」(同上:98)と続けた。「血の結合体」としてのゲマインシャフトが言葉で表現されている。

1922(39歳)の11月に母クスが亡くなる。その直前に詠われた一首

14.病む母を 置きて旅立つ 秋風の 此肥の國の はなれあへぬも

がある。病気の母親を気遣う高田の気持ちがそのまま詠われている。

1921年6月から東京商科大学教授になっていたから、22年の「旅立ち」は肥前佐賀の実家から東京行きなのであった。

「病む母、秋風、はなれ、あへぬ」が相乗効果を出していて、「旅立つ」際の不安でやるせないこころが表現されている。しかも「はなれあへぬも」なのであり、一旦東京に出れば、母親とは「はなれる」だけではなく、もう「あへぬ」という諦観が「も」に込められている。

この「も」は、『基本古語』における説明の「ある事物が他と同様の条件・状態であることを示す」で解釈しておきたい。すなわち、「はなれる」とともに、「あへぬ」状態になるのである。