1948年(65歳)

1948年(65歳)になると、次の歌が詠まれた。

6.生まれ出でし ちくしの国の 暖かさ 空の光も 人の心も

筑紫の国とは福岡県の筑後平野と佐賀県の佐賀平野を総称し、有明海に面する筑後川流域の平野全体をさす。

高田は小城郡三日月村(現小城市三日月町)の出身であり、筑後川の西岸佐賀市の隣になる。18歳で旧制県立佐賀中学校を卒業するまで生家から通学した。その後熊本の第五高等学校に入学してからは、41歳で九州帝国大学教授になるまでは生家での暮らしはなかった。

私は18歳まで筑後川の東岸に位置している福岡県大川市で育ったので、66歳年上の高田の知る「空の光も」「人の心も」よく分かる。その暖かさは春夏秋冬の気温はもちろんだが、周囲に山がないために空が広く、「空の光」の明るさが印象的な地方都市であった。さらに佐賀弁と大川弁の違いがあっても、その「こころ」も「ことば」も似ているところがあり、さらに通婚圏としても佐賀と大川は重なっていた。

この歌は「知りて物言ふ 人もなし」のふるさとに帰郷した高田が、なじんだ景色を見ながら、その視線に宿った一幅の映像を切り取ったものである。

そして、1949(66歳)では大川=筑後川を題材にした歌が生まれた。

1949年(66歳)

7.大川の あしの若芽に ひたひたと 寄せ来る春の にごり汐かな

今でも同じだが、日田市を流れる三隈川が夜明け峡谷を経て筑紫平野に出ると筑後川になり、久留米市を通り最終的に大川市を流れて有明海に注いでいる。

大川市に入ると筑後川流域の両岸には「あし」(葦、「よし」ともいう)の大群落がみられる。「あし」はイネ科の多年草で、高いものは2メートルを超える。その若芽は食用になり、茎が硬いことから「すだれ」の材料にもなる。私が子どもの頃、夏にはその大群落のなかに「よしきり」というスズメ科の鳥がたくさんいた。

筑後川には満ち引き・・・・がある

大川市は筑後川が有明海に注ぐ地点なので、干満差が6メートルの有明海の潮汐活動の影響で、川にも関わらず汐の満ち引きがある。季節は春を歌っているが、にごり汐は年中無休で生じている。具体的には有明海から筑後川への逆流であり、上流の久留米方面からの流れと有明海からの流れがぶつかるために、大川の河口付近では水が濁ってしまうのである。

景観としては「川、あしの若芽、にごり汐」があり、その状態が「ひたひた」や「寄せ来る」という動きの中で捉えられた作品に仕上げられている。

見つめる高田の立ち位置は、筑後川の佐賀県側の諸富町の川岸だったのだろうか。

8.大川は ひき汐早し 開閉橋 列車きこえて 今閉ちむとす

この大川も筑後川を指している。なぜなら開閉橋(文化財としての正式名称は旧筑後川橋梁、通称は筑後川昇開橋)が読み込まれているからである。

昇開橋は1935年の国鉄佐賀線(鹿児島本線の瀬高駅から柳川市・大川市を通り、終着は佐賀駅)開業以来、大型船の通行の際には可動してきた。具体的には、橋脚と橋脚の間が約26メートルで、そこに架けられた約24メートルの可動橋が約23メートルの高さまで上る仕掛けである。

1987年に国鉄佐賀線が廃止されてからも壊されることなく、1996年4月には筑後川昇開橋遊歩道が開通して、同じ年の12月には国登録文化財として登録され、2003年には国指定重要文化財の指定を受けた。そして2007年には機械遺産にも認定された。

高田がこれを詠んだ1949年に、私は昇開橋から徒歩で10分もかからないところで誕生した。10歳代の成長期でも繁華街での買い物は佐賀市か久留米市だったが、昇開橋を通る国鉄佐賀線の時間距離が短いため、これを使って佐賀市によく出かけたものであった。

川の「ひき汐」

さて、「ひき汐」では筑後川とその支流の花宗川の水量が激減して、川底が見えるくらいになる(写真1)。さすがに筑後川はここまで水量が減ることはないが、原理は同じである。

写真1 花宗川のひき汐の状態(注)金子撮影(2022.3)。これは筑後川支流の花宗川のひき汐であり、「ガタ」と地元で呼ばれる汚泥が川岸から川の中ほどまでびっしり見えている。水量はわずかであり、川の中ほどに2メートルくらいの幅で水が流れているだけである。しかし半日もすれば流れが反転して、川岸まで水が満ちてくる。

高田にしては「橋、列車、川の流れ」の景観を詠じただけで、そこには「こころ」にあたる「ことば」が見当たらない。いわば「写生」に限定した一首になっている。

9.さしにごる 汐に逆らひ 行く舟の 右も左も よし切りのこゑ

これも筑後川の風景を詠んでいる。

何しろ筑後川の河口付近では満ち汐も引き汐も普通に見られるので、海の満ち引きだけではなく、川でも満ち引きがあると私は信じていた。たぶん小学3年生の理科の授業で「川にも満ち引きがある」という趣旨の発言をしたら、担任が「満ち引きは海しかないので、川の満ち引きは間違いだ」とした。それ以降は教師が嫌いになってしまったという思い出がある。

大川市の子どもの日常体験からは「川でも満ち引きがある」のだから、もう少し教え方の工夫が必要だと子ども心に感じたものである。

教科書と日常体験のギャップ

教科書的には確かに川は上流から下流に一方的に流れるだけであり、その意味では汐の満ち引きはありえないが、日常生活のなかではまぎれもなく川もまた汐の満ち引きがあったのだから、教室ではその説明もほしかった。

大川市を流れる筑後川流域だけ、初夏の5月から7月までの2カ月だけの珍味「えつ」が食卓に上る。弘法伝説の一つの「えつ」はカタクチイワシ科の小魚なのだが、なぜ2カ月かというと、8月になると身が硬くなりとても食べられないからである。

よし切りは「行々子」

さて歌の世界に戻ると、「にごる汐」なので、有明海からの逆流が始まっていて、それに抗して小舟が揺れている。両岸は葦(あし、よし)の群落であることは7で説明した通りであり、その群落のなかでよし切りが巣をつくり、子育てをする。鳴き声が「ギョギョシ」と聞こえるので、俳人は「行々子」(ぎょうぎょうし)という。

高田もまた「ギョギョシ」を聞いたのであろう。強い鳴き声が「にごる汐」に揺られている小舟の動きと重なり、聴覚と視覚の双方で季節が表現されている。

10.今もなほ 幼きままに ありぬべし 子らにはちさき 花あげよかし

66歳の高田には29歳の長女と21歳の三女がいたが、ここに登場する「子ら」は早世した長男と二女なのであろう。

自伝『私の追憶』にも和歌にも、繰り返し親の責任と悔いが述べられている。1924年4月に長男が生まれたが、「生後二八日で世を去った」(『私の追憶』:133)。以後、高田は「不運の親、不注意の親をもったばかりに末長い一生はつみとられてしまった」(同上:133)と繰り返し嘆いた。

二女は1929年に5歳で亡くなられた。30年後の『私の追憶』で、「わずかに1日の急病で亡くなった。亡くなったのではない、親が亡くしたのである」(同上:231)と書いている。

この時期の高田は九州帝国大学の経済原論講義とそのための準備に明け暮れていた。それが大著『経済学新講』5冊として完結したのは1932年であった。

第1巻は「総説 生産の理論」(1929)、第2巻は「価格の理論」(1930)、第3巻は「貨幣の理論」(1930)、第4巻は「分配の理論」(1931)であり、第5巻が「変動の理論」(1932)であった。合計すると2141頁になり、連載第1回で紹介したように、森嶋通夫がいう「武蔵」にふさわしい威容を備えていた。

『経済学新講』の各巻冒頭に二女への歌が掲げられている

全巻の冒頭に亡くされた二女の思い出や歌が記されている。とりわけ第5巻では標題と「終巻の序」の間に「長(とこし)へに幼き さえ子の霊に 罪深き父は この書を捧ぐ」が置かれ、三首が並べられている。その一首「なげくとて かへり来たらむ 吾子(あこ)ならね 落つる涙の 理(わり)しらずして」を挙げておこう。

20年ほど前に『高田保馬リカバリー』(2003)編集のために、他の社会学書とともに『経済学新講』5冊を手にした時に、各巻冒頭に早世された娘さんへの思いと歌が掲載されていたことに驚いたものである。

第4巻でも「此の書もまた彼女の力によりて成れるものである」と記されて、その横には「ゆける子は遠し、いつの日か、またかへらむ」・・・・・・「人の子のあまりに弱く、涙、頬にあつきを覚ゆ」とある。