2週間ぐらい前のブログでEUの行方について述べました。これも欧州各国を串刺しにしてルールを制定し、各国の自治と別にEUによるタガをはめるとも言えるのです。これは太古の世界から議論されてきた本来の「民の均一性の中に立つ民主主義」とは程遠く「一定の強制力をもって理念を追求する民主主義」とも言えるのです。

アメリカで富裕者による寄付活動が活発なのは一般的にはキリスト教精神が背景にあるのだろう、とされます。が、視点を変えるとアメリカの民主主義は既に機能を失いつつあるので一部の民=民間が主体となって一つの現代版ポリスを作ろうとしているのだとしたらどうでしょうか?ところでポリシー(政策)の語源はアテネのポリスから来ています。つまり一つの目的意識に対して民意を満足させるべくポリシーを団体というVehicle(NPOでも大学、企業、インスティテューション、地域団体、コミュニティなど何でもよい)を通じて実行させるのです。これは連邦国家の強制的エンクロージャー方式から細胞分裂型になってきているとも言えるのです。

アメリカの民主主義の行方についてはいろいろ議論がありますが、細胞分裂されたそれぞれの個体、団体、集団が一定の力を備えてギリシャ型のポリスを目指しているのではないか、という前提を私は考えています。発想の飛躍しすぎかもしれません。ですが、GAFAMといった巨大企業が育ち、国家を凌駕するようになりつつあることもこれで説明はつくのです。

民主主義は発展的変化を続けるはずです。ただし、主権在民という発想があまりにもブロード(広大)で理念先行でありこれを具現化するのが現代社会では実務的な困難が伴うので、今その在り方を模索しているのだ、ということでしょう。権威主義が増えているのはまだ発展途上にある国では民意が先進国ほどばらけていない中でカリスマ性のある指導者への期待度が高まり、権威主義による統治がしやすいとも言えるのではないでしょうか?