民主主義の原点はアテネの民意による決議でした。ルソーの社会契約論もそれを継承しています。ではなぜ今、民主主義がとやかく言われるのでしょうか?私は民主主義の書籍を読み続けていて気がついていたことがあります。それはアテネの時代やルソーが活躍した18世紀(1700年代)は社会がまだシンプルだったのです。そこにある前提は「民は皆、均質である」という発想であり、極めて均一的な社会が前提になっているのです。故にルソーは多数決の原理は正しく、それに外れた人は考えが間違っているのだ、と平気で言えたわけです。ところが、プラトンは多数決は必ずしも正ではない、とします。それは師であったソクラティスが民衆裁判で死刑になったのは民意が間違っていたからであると考えたのです。
世の中、間違っていたことはいくらでもありますが、それに民意は気がつかないことは多々あるのです。それこそ天動説が覆され、地動説への動きは世の中を大混乱に陥らせながらようやく常識を覆したのです。ただ、それでもその時代は社会が単純化されたモデルだったと思うのです。
アメリカが民主主義の雄であったはずなのに「欠陥民主主義」に留まるのは何故か、といえば連邦政府の決定は大統領と政治家が多数決の原理を活用し、意図する社会を作り上げようとしているからです。もともとアメリカの建国の歴史を見直すと連邦政府というのはおまけで州の自治が非常に進んでいたバラバラの国家だったものを連邦という形態で串刺しにしたものです。カナダも全く同様です。そこには犠牲が伴うのです。国土が広いため、産業が均一ではなく、大都市がある州や資源が出る州など裕福な州や農業しかない州など連邦という串刺しでは当然不平等と不満が起きるのです。
古代ギリシャのアテネのポリスは人口が数百から数千人規模のものが200程度あったとされます。それを制度的に串刺しにはしていません。ここに私は現代の民主主義のいびつさを感じるのです。