聖武天皇は、光明皇后との娘の孝謙天皇に譲位した。だが、孝謙天皇は塩焼王を太子にしながら廃嫡し、淳仁天皇に譲位したのち重祚し(称徳天皇)、怪僧道鏡への譲位を模索したが諦めた。孝謙天皇の死去後、めいである井上内親王の夫で天智天皇の孫の光仁天皇が即位した。
この孝謙・称徳天皇の前後の時代にあっては、さまざまな登場人物の思惑が錯綜し、また、時とともにそれぞれが意見を変遷させていったので、藤原氏の思惑で事態が動いていったという捉え方は間違っている。
皇嗣たる次期天皇をあらかじめ定めて皇太子とか東宮とか言うことは、聖徳太子のころからあったようだが、奈良時代に律令制のもとで発展し、平安時代以降には定着し、立太子礼が行われ、そこで壺切御剣が親授されることが多くなった(戦国時代などでは儲君の比定のみで儀式は省略)。
平安初期の恒貞親王(仁明天皇のとき)までは、皇嗣とされても廃太子されることが頻発した。だが、それ以降は、南北朝の混乱期を除けば、藤原道長の横車で辞退した敦明親王(小一条院)が唯一の例である(秋篠宮皇嗣殿下の立皇嗣と壺切御剣の親授は2022年に行われた)。