聖徳太子が即位しなかったとか、大化の改新のあと天智天皇がなかなか即位しなかったとかいうのも、前述の30歳の原則で説明できる。壬申の乱時の弘文天皇は即位していなかったと思う。この原則が崩れるのは16歳の文武天皇即位の時だ。

初の生前退位は、大化の改新時の皇極天皇だ。大化の改新で皇極天皇がいったん退位したことで実現したが、626年の唐代に起きた玄武門の変で、髙祖から太宗に生前退位したことが影響したのでないか。

推古天皇は最初の女帝であるが、『日本書紀』でも、神功皇太后(開化天皇の男系子孫)は事実上の女帝として扱われているし(「女帝ではない」としたのは大正時代)、武烈天皇の後に飯豊皇女、宣化天皇の後に山田皇女を即位させようという動きもあった。

もともと男性で年齢的にも妥当な皇位継承者がいないときに、皇后や皇女が政務を預かることもあったが、文字の普及が進んだ時代の推古天皇に至り、正式に君主(当時はスメラギなどといっていたはず)として公式に扱うことになったのでないか。

わかりやすい例えでいうならば、零細商店で未亡人が「おかみさん」として店を取り仕切っていたのが、株式会社になって「社長」と呼ばれるようになったようなものだと思う。

天武天皇のあとは、皇后の持統天皇との子である草壁皇子が継ぐ予定だったが、若すぎたので、持統天皇が政務を見た(称制)。だが、草壁皇子が28歳で死去したため、持統天皇が即位した。

その持統天皇は54歳で譲位し、強引に孫の16歳の文武天皇に引き継いだ。壬申の乱を天智の娘である持統天皇と天智の弟の天武天皇の夫婦で乗り切った以上、この二人の血筋が優先すべきだという気持ちが、年齢制限の壁を乗り越えさせた。

ところが、文武天皇は病弱で25歳で死んだので、聖武天皇の成長を待つために、文武天皇の母の元明天皇とその娘で独身の元正天皇が即位し、聖武天皇が25歳になったところで即位させた。