大小様々な戦が日々繰り広げられる中、傭兵は絶え間ない需要に応える存在となったのです。
戦争が頻発することで、武器を手に戦場を渡り歩く傭兵たちは収入を得、戦いの技を磨いていきました。
雑賀衆は、こうした戦乱の中でその地位を確立し、鉄砲隊という新たな戦術で他を圧倒したのです。
また、武士による戦力の限界も傭兵の必要性を高めた要因でした。
領主が農業生産を基盤とする封建社会では、武士の死傷は農村社会の安定を揺るがしかねない問題であったのです。
限られた資源の中で、勝利を渇望する勢力が目を向けたのが、地域を超えて雇用できる傭兵でした。
雑賀衆は、紀州の地元に留まらず、各地の戦場でその腕前を発揮し、名声を得たのです。
さらに、雑賀地域自体の農業生産力の低さと、人口過剰の問題が彼らを傭兵の道へと導きました。
肥沃ではない土地に縛られた彼らは、生きる術として戦場に向かったのです。
武器を手にして戦うことは、荒地で作物を育てるよりも現実的な選択でした。
こうして、紀州の荒地が育てた戦士たちは、戦場での武勇によって名を馳せていきます。
加えて、近畿地方の経済的繁栄もあります。この時代、農業生産力の向上と社会的分業の進展が見られました。
戦うことに専念する雑賀衆が生存できたのは、衣服を仕立てる者、武器を鍛える鍛冶屋、食糧を供給する農民が存在したからです。
こうした分業社会の発達が、雑賀衆という職業戦士の土台を支えました。
世論の影響も見逃せません。
確かに傭兵に対する偏見は当時も存在したものの、16世紀の日本において、雑賀衆のような働き者の傭兵が怠けることなく戦い抜く限り、彼らに対する反感は薄かったです。
むしろ、戦場での彼らの働きぶりは評価され、時に称賛さえされたといいます。
統治者も百姓も、必要な戦力として彼らを認めざるを得なかったのです。
しかし雑賀衆も全国統一を目指す豊臣秀吉の前にはさすがになす術がなく、1585年に拠点となった太田城(現在の和歌山県和歌山市)を落とされます。