時には以前の敵が次の雇い主となることもあり、敵味方の区別などほとんど無きに等しかったとのこと。

例えば、本願寺のために戦った後にはその敵方に味方することもあり、忠義などという概念をあっさり捨て去る姿勢が特徴的でした。

また、雑賀衆の自由奔放さは戦場においても顕著でした。

同じ戦争で両陣営に加担することさえ珍しくなく、1577年の織田信長による紀州攻めでは、その一部が信長に付き、他の一部が地元勢力と共に戦ったという記録も残ったほどです。

こんな具合だから、「戦国の裏切り者」などという不名誉な称号を背負うこともしばしばあります。

通常の組織であれば、組織全体を束ねるリーダーが雑賀衆全体の利益を考えて、大規模な同士討ちが起こらないように調整したりします。

しかし雑賀衆が他の傭兵集団と異なるのは、先述したように全体を統括するリーダーが存在しなかった点です。

そのため、各隊長が独自に契約を交わし、戦場での方針も個々の判断に委ねられました

これが、同族同士での戦いという奇妙な現象を生んだ一因です。

普通、戦争では勝利のために団結するものですが、雑賀衆の場合は利益追求が第一だったのです。

このように雑賀衆は、戦国時代という特異な時代の申し子であり、戦乱が彼らを育て、また彼らが戦乱を煽ったとも言える存在といえます。

彼らの活躍は戦国の歴史に深い影を落とし、そして今もなお、語り継がれるべき異端の傭兵伝説として輝いているのです。

時代の隙間で大暴れした雑賀衆

火縄銃、雑賀衆は火縄銃を駆使して戦場で大活躍をした
火縄銃、雑賀衆は火縄銃を駆使して戦場で大活躍をした / credit:wikipedia

雑賀衆は紀州の荒地を背に、傭兵として名を馳せ、石山合戦をはじめとする舞台でその力を遺憾なく発揮しました。

だが、何が彼らを戦国の舞台で躍進させたのでしょうか。

雑賀衆の活躍を支えた第一の要因は、時代そのものの無政府的性質です。

この時代、全国的な統治機関は存在したものの、その支配力は弱く、実質的には大名たちが領地を争う戦乱の渦中にありました