各リーダーは自分の部下を束ねるに留まり、一括して全体を代表する人物はいません。
そのため、起請文も合意を象徴する文書として、全員が同じ紙に名を連ねる形式をとったのです。
とはいえ、この「協力」はどこか気まぐれです。
雑賀衆の自治は合議制に近く、必要なときだけ連携し、いざとなれば独立性を強調して離反することも少なくありませんでした。
このように、雑賀衆はまとまりに欠ける一方、しなやかで自由な力を発揮する独特の組織だったのです。
「湯河直春起請文」は、そんな雑賀衆の魅力と複雑さを、紙一枚に凝縮した不思議な一枚であります。
雑賀衆同士で敵味方に分かれて戦うこともあった
雑賀衆という名を耳にしたならば、その響きからして、いかにも荒々しい傭兵集団を思い浮かべるのではないでしょうか。
彼らは、戦国時代の日本において、「働き者の戦士」なる言葉を体現した存在でした。
しかし、彼らの働きぶりときたら、まさに風のごとく奔放、雇い主の都合よりも自らの利益を第一に考える、そんな気風に満ちていました。
雑賀衆が歴史の舞台に初登場したのは、1535年、大坂へ300名が援軍として赴いたという記録です。
これが戦国傭兵としての初仕事かどうかは定かではないものの、以降、彼らは合戦に次々と関わっていくのです。
1570年から1585年にかけては、ほぼ毎年のように大戦争に参加し、その名を近畿一帯に轟かせました。
この全盛期の戦乱は、ちょうど戦国の覇者たちが上洛を目指し、権力争いに熱中していた時期と重なります。
雑賀衆がこうした乱世で繁忙を極めたのは、彼らの戦闘技術と、その名声ゆえと言えるでしょう。
雑賀衆の雇い主は実に多様でした。
天下人織田信長から宗教勢力の本願寺まで、政治的信条も宗教観も異なる人々が彼らを雇い入れたのです。