居所不明編
S君は高校まで筆者と一緒、地方の医大に進み附属病院の医師だった高校のOB名簿で判っていた。が、何しろ88年版、変更のあった地番を調べ発送したが、10日後に「あて所に尋ねあたりません」と赤スタンプが押された封筒が舞い戻った。郵便局に聞くと「別人が居住している」との意味だそうだ。
諦めの悪い筆者は、その附属病院に賭けた。すなわち、同院サイトの「問い合わせフォーム」に当方の素性と目的を綿々と書き込み、定年退職しているであろうS君にそれを転送してもらい、彼から筆者に連絡を寄こすよう依頼したのだ。
が、今時のこと、病院からもS君からも音沙汰はなかった。確かに病院の「問い合わせフォーム」には「個人情報には答えられない」と書いてある。が、転送された文面を見た後に、S君が筆者に連絡を取るか取らないかは彼の意志なのだから、病院にとって個人情報の漏洩には当たるまいに。
後日談だが、開催を目前にしたある日、今時はやりのFacebookを検索していたら、何とS君のサイトがあるではないか。最後の更新は19年秋だったが、「同窓会、まだ間に合うよ」とメッセージを入れたのは言うまでもない。が、返事は来ずじまいだった。
次はHさんの話。中学の名簿を拾っていると、Hさんの住所が筆者の目と鼻の先なのだ。住んで36年も経つのに今まで出くわさなかったのが不思議。ところが、出した案内状が赤スランプで戻って来た。近くなので訪ねてみると、その場所は今時増えている介護関係のビルになっていた。
ついでに隣の家の表札を見ると、番地は1番違いだがHさんと同じ苗字の表札が出ている。そのポストに赤スタンプの封筒を入れ込んだが、今度は「うちじゃありません」と鉛筆書きされた封筒が戻ってきた。郵便屋さんは「その辺りはHの苗字ばかりです」とボヤいていた。
が、まだ話は終わらない。数日後その辺りを散歩がてらウロウロしていると、土地いじり中の老婦人がこちらを胡乱な輩とばかりチラ見している。近寄って、Hさんという背の高いご婦人をご存じないかと聞くと、「見掛けるけど新しいお宅は知らない」という。どうも近くに引っ越したらしい。
事情を話すと、「今度会ったら伝えるから、電話番号を教えて」と、今時めずらしいことをいうので、案内状を差し出し「これを渡して」と筆者。が、1週間ほどすると我が郵便受けに案内状。きっと今時のご家族に「返しておいで」と言われた老婦人が戻しに来たのだろう。悪いことをした。
居所判明編最後は所在が判った話。子供の頃に頭を刈ってもらった近所の床屋の娘Kさんは、小4で転校して来た。彼女の父親は若い頃そこで修業をしていたが、後に他店へ移ったかまたは独立していた。戻って来たのは、先代が亡くなったその床屋を父親が引き継いだからだ。が、もうその床屋はない。
Kさんの兄が同じ高校だったことを思い出した筆者は、例の88年版OB名簿を繰った。兄上宛にも、便箋に理由を書き、Kさんから私に連絡を取ってくれるよう書き添えてポストへ。が、周到な(しつこい?)筆者は音信を待つ間に別の策も講じた。
床屋の跡地は今時の例に漏れず駐車場になっている。が、隣の八百屋の主人も高校の後輩だった。八百屋を訪ねた筆者は、「隣にあった床屋の娘の居所を知らないか」と問うた。すると、さすがは八百屋、「駅前の大きなマンションだよ」と教えてくれた。
お礼に買ったミカン6個450円也の入ったレジ袋を手に駅前に引き返した。が、9階建てのマンションの郵便受けには部屋番号があるだけ。今時のマンションが皆そうかといえば、そうではない。築36年の我がマンションは、149戸全てに部屋番号と居住者の名前がある。
そこは管理人もいないので2階と3階の各戸の表札を見てみたが、どこも部屋番号しか出していない。諦めて帰りかけた1階で出くわした女性に、「管理人さんはいませんか」と聞くと「午前中だけよ」と。またしても手掛かりが途絶えたが、ここまで来て諦める訳にはいかない。
次に頼ったのは、今も3丁目で主のように暮している姉。むろん姉はKさんを知っていて、聞けば、以前は偶に道で会ったがここ最近は見掛けないという。そこで筆者は姉に、午前中に駅前のマンションに行き、管理人にKさんの部屋番号を聞いてくれるよう頼んだ。
暫くして、今時の管理人から「教えられない」といわれたと姉。が、なおも姉が食い下がると、Kさんに連絡してくれた。降りて来たKさんは姉に、「今さら同窓会?」と訝りつつも「考えてみます」とのことだった。数日後、Kさん兄上宛の手紙が赤スタンプで舞い戻った。
その後、出掛けたついでに兄上宛の戻り封筒をKさんの郵便受けに入れておいたのが3月20日頃だった。すると4月1日の朝方、スマホが鳴るのに目を覚まし、普段は出ない電話に出ると、何とKさんからではないか、しかも固定電話。折しも、その日はエイプリルフール。
郵便受けの件を切り出すと、初めは名前を出していたが、土地柄入居者に米兵が多く、出さない戸が多いのでそれに倣ったと。結局、都合がつかず欠席とのことだったが、30分ほど話すうちに様々思い出したらしく、最後は「色々してくれたのに、ごめんなさいね」と労われた。