卒業して60年も経った小学校の同窓会を今さら開こうと思い立った。理由は、6度目の年男を迎えたせいか近頃やたら当時のことを思い出すようになり、ここでやっておかないときっと後悔する気がしたからだ。思い浮かぶのは、中学でも高校でもなくて、なぜか小学校の頃なのである。
母校第一中の学区は、第一小と第二小(何れも仮名)、そして我が青葉小だった。1964年4月の第一中新入生は9クラス450人で、青葉小からは72人だったから、卒業79人のうち7人が私立中学に進んだ。第一小からは220人前後、第二小からは160人ほどの内訳だったか。
なぜこの話から始めたのかといえば、幹事を志願した青葉小64年卒初の同窓会の名簿作りに、10年以上前に2度行われていた第一中の卒業生名簿を使ったからだ。先ずは、その名簿から青葉小の卒業写真の薄紙に書かれた名前を頼りに、72名を拾う作業に取り掛かった。
そもそも私立中に進んだ7人の居所は端から判らない。72人を拾い出し、住所が載っていたのは46人なので更に26人の行方が不明となった。その46人にも当時のままの住所が散見されたが、学区の3丁目と4丁目に今も住んでいるのは数名に過ぎまいことは明白だった。
というのも、筆者が住んでいた3丁目で今も暮しているは、たった1人と判っているからだ。三浦半島の人口減少が如何に激しいかは、先ごろ三浦市が「消滅可能性自治体」の一つに名が載り、数年前には横須賀市が、全国で最も人口流出の多い自治体になったことからも知れる。
今は横浜だが、当時の我が家は横須賀名物・谷戸の段々を百段近く登った所にあった。そこから10軒ほど隔てた同じ標高に姉が今も住んでいるが、姉の家までの10軒は、私の実家も含めて大半が空き家である。取り壊すにも重機が持ち込めないから、手の施しようがない。
ということで46人から物故者4人、明らかにその住所から転居した方、今時のLINEで音信のある方を除いた28名に案内状を発送したのが開催日(4月20日)の2ヵ月前だった。以下に、今時の居所探しの苦労譚を3つ紹介する。