この辺り、今般出馬した小泉進次郎の、「解雇規制」と「選択的夫婦別姓」に「1年で決着をつける」との言動と、それに対する他候補や世論の反対論、そして世論調査での支持急落が重なる。両方とも十倉経団連会長と15分面談した影響だろうが、中曽根の「情愛」や「深く考えて、慎重に」との純一郎批判を息子はどう読むだろうか。
筆者は拙稿「幻でなかった『安倍晋三回顧録』」で、「岸信介が岸田の祖父でなかったこと」が安倍と岸田の違いと書き、『岸信介証言録』が孫に与えた影響を推論した。小泉元首相にも『決断のとき』(集英社新書)があるが、郵政民営化を始め、失われた30年初期にそれに棹を差した人物の「回顧録」に読む価値があろうか。
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さて、『自省録』には「人物月旦」なる項があり、当時の政治家の人物評をしていて、そこには総裁選を巡る裏話もいくつかある。河野太郎の祖父・河野一郎の項には、60年に新安保条約が発効し、岸内閣が総辞職した際、池田勇人・石井光次郎・大野伴睦が総裁を争った時の話が出てくる。
中曽根に拠れば、大野は「岸内閣成立に協力する代わりに政権を禅譲してもらう」という岸との密約を信じていたから、話し合いによる選出を望んでいたが、池田は公選を主張した。結果、総裁選となり、池田を押す官僚グループと石井・大野の党人派の対立という構図になった。
ところが党人派の河野は大野ではなく石井を担ごうと画策、大野は不本意ながら引くことを決断する。河野派の若手だった中曽根は大野を説得するが聞かず、立てた石井も池田に負けてしまう。この時、離党を考えていた河野は中曽根に「幹事長をやれ」というが、中曽根はのらりくらり話を引き延ばした。
その内に30数人いた河野派で河野についてゆくという者が半数以下になり、中曽根は河野を説得させようと大野を訪ねる。大野は色紙に「百忍憂いなし」と認め、「河野君に自重するようにいえ」と託す。これで河野は思い止まり、池田内閣の建設大臣兼五輪大臣として、国民をして「さすが河野」と言わしめた。