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『洛北集』(1943)から

第3回は『洛北集』(甲鳥書林、1943)からの秀句を取り上げていく。

「自序」には、

私は本来、與謝野門下の席末に列り、新詩社の流風を呼吸して成長したものである。・・・・・・(中略)自己の内奥の卒直なる告白に外ならぬ多年の作品は遂にすて去るに忍びず、敢てこれを一巻としてまとめるに至った(同上:2-3)。

とある。

そして「思慕郷里を離れているわけではない」が、全巻から「社会と民族とに関する私の情熱」を読み取ってほしいとする。ただ今回は「ふるさと」の歌を中心にみていこう。

(前回:高田保馬の「感性」と「理性」②:歌集からの「感性」分析の方法論)

1932年(49歳)

1.針を買ひ 糸を買ひ来て ほころびを 縫ひつゝ思ふ ふるさとの家

この時期の高田は京大教授専任ではあったが、九大教授も兼担していて、半年ずつの講義を続けていた。歌は「ふるさとの家」を「思ふ」とされているから、京都の単身赴任先での一首である。

「針・糸・ほころび」が結びついた部屋の情景が浮かんでくる。しかし、単身なので自らが縫うしかない。明治生まれの50男が裁縫するのだから、本人の気持ちを忖度すればおそらくは楽しくはなかったであろう。

しかしそれをやりながら、かつてならば母がそして今ならば妻が縫ってくれたはずの佐賀県小城郡三日月村の生家を思い起こした。ふるさとの景色や人々に託した「思い」とは別に、「針仕事」からもふるさとへの気持ちが伝わってくる。

上の句は、高田にとっては様々な事情から仕方がない行為であるが、「買ひ」と「縫ひ」という表現に諦念を断ち切る響きがあり、その先に「ふるさと」を思うことにより、精神的には救いが読み取れる。

2.耕して 一生貧しき 村人の 次ぎ次ぎにして 土にかへるも

歌の内容は社会学者の観察そのものであり、通常は散文表現になるのだろうが、和歌に託したのはなぜか。高田家は代々天台宗の僧籍であり、父清人は第16代目に当たる。明治初年の廃仏毀釈により神学をまなび、高田が生まれた頃は神職を家業としていたが、田地二町歩を所有していた自作農でもあった。作男が二人いたという(高田保馬博士顕彰会、2004:37)。

『回想記』では「農村の人として」の感想が詳しく綴られている。

私共の幼時は、此小村の家數も少し多かった。そして、その大半までは自作農であった。三四十年の間、親の次は子、子の次は孫、代々正直に朝から晩まではたらいた。而も今は、大抵は小作農として立つことになってゐる。・・・・・・正直にはたらいて、働きぬいて得た結果は何か、世間並にも及ばぬくらしと、土地の喪失と、借金と。・・・・・・もとよりこれは個人のしわざではない。社會のしわざである。然らば社會は農村に何をしたか。(中略)事がらは極めて簡単である。一方に於ては自給性の喪失。他方に於て、生活標準の變化。これは資本主義生産の發達の両側面と考えてもよい(同上:50-51)。

このような感慨をもちながら、ふるさとの農村の現況と農民の一生を和歌に詠みこんだ。「耕す土にかえる」村人の一生が、資本主義社会の側の動きによって定められてしまったことへの社会学者の悲しみが伝わってくる。

社会学・経済学からの提言

当時の高田の研究はその主軸を社会学からすでに『経済学新講』に移していたから、これらは勃興期の資本主義による「農村の没落」を回避する手段としての提言でもあった。それは「農村をして自ら立たしむる道」(同上:58)である。具体的には、「農業の多角的経営、即ち生産物種類の増加と経営の合理化とを中心とする、同時に産業組合の利用、技術の進歩などがすすめられる」(同上:58)ものであった。

そして、最終的には「農村が自ら使用するものは之を自ら作る」ことを勧めて、村全体での「自給性の恢復」(同上:59)を強調した。

令和の今日では「自律性」と「自立性」を強化して、「地産地消」を実行しようという主張になろうが、これはこの10年続いてきた「地方創生」の理念でもあることに留意しておきたい。ここにも高田特有の「遠視力」が認められる。

1933年(50歳)

50歳になり、

3.病みたれば 幾年ぶりか 故郷の つゝじ花咲く 頃をわが居り

4.身も老いぬ 故郷老いぬ 大方は そのかみ人の すでにあらざる

が合わせて詠まれている。

3は病気になり、久しぶりに三日月村の生家に戻ってきた時の歌であろう。つつじが咲いているから時期は5月上旬か。わが家を取り巻く景色は変わっていないが、毎年繰り返して咲く「つつじ花」が鮮やかな色であるだけに、病気の辛さや暗さとの対比効果が大きい。

4では、すでに「身も老いぬ」として老化が意識され始めている。加えて、景色は変わらないとはいえ、ふるさとに住む人々にも着実な老いが認められるようになった。時の流れが上の句で慨嘆されている。

加えて、下の句では「そのかみ」(其の上)すなわちその当時の人たちは、「すでにあらざる」(もはや誰もいなくなった)状態が重なっている。病気で帰省して、これでは寂寥感がいやおうなしに強まるだろう。

「そのかみ」には、『広辞苑』(岩波書店)、『大辞泉』(小学館)、『日本語大辞典』(講談社)いずれもで「其の上」が充てられているが、『基本古語』(大修館書店)では「当時・往昔」になっていた。『全訳古語例解辞典』(小学館)では「其の上・往昔」と折衷されていたが、「当時・往昔」が一番分かりやすい。

さらに4では、上の句で「老いぬ」が二度繰り返され、下の句が「すでにあらざる」なのだから、時間の流れの無常さがひしひしと伝わってくる。「老い」自体が時の流れの結果であるうえに、往時の知人が「あらざる」では、時の流れが重なって帰省した高田に押し寄せてくる。

1934年(51歳)

51歳では、

帰郷(十月)

5.耳すまし きけばし聞ゆ 初秋の 遠くの村の 秋蝉のこゑ

がある。久しぶりの10月のふるさとでも、耳を澄ませば遠くから秋蝉の鳴き声が聞こえてくる。生家周辺は農地だから音を遮る建物がなく、かなり遠くから蝉の声が聞こえたのであろう。「耳」と「蝉のこゑ」は聴覚であり、「初秋」と「遠くの村」は視覚的なことばであり、両者が組み合わされた情景描写になっている。

高田が京都塔の段下町に郷里の家族を呼び寄せて生涯の住居を得たのは1936年だから、この時期の三日月村の生家には家族がいた。帰郷して家族に会ったのだから、和歌にも穏やかさが滲み出ている。

1935年(52歳)

それは52歳でも同じであり、

6.吹き通る 青田の風に 日もすがら いねて書よむ ふるさとの家

では、田植えが済んだ頃に、二階の窓を開けて、初夏の爽やかな風を受けながら、読書三昧の落ち着いた生家での暮らしが浮かんでくる。読み疲れて居眠りしながら、ひもすがら(終日)すなわち朝から晩まで好きな本を読んでいる光景の自己描写になっている。ここにも穏やかさが感じ取れる。

しかし1937年に日中戦争が始まり、38年に「国家総動員法」が成立すると、身辺にも「いくさ」すなわち戦争の影が忍び寄ることになる。

1938年(55歳)

7.夫(つま)も子も いくさにあらむ この村の をみな群れつゝ 稲刈れる見ゆ

では、筑紫平野の稲刈りにすらその断片が詠みこまれるようになる。

稲刈りをするのが夫や息子という男たちではなく、村の「をみな」たちなのだという。しかも「群れつゝ」みんなで協力し合って稲刈りしているのである。なぜなら、夫も息子も「いくさにあらむ」、すなわち兵隊として中国戦線に投入されていて、秋の稲刈りという村の一大行事にさえ出て来れないからであった。代わりに妻や娘たちが、近隣総出で「群れつつ」働くさまが観察されている。

稲刈りに不在の夫や息子がはるか遠方で「いくさ」に従事して、残された「をみな」による近隣総出の「稲刈り」が詠われているので、中国戦線と三日月村という空間の対比と、「いくさ」の男たちと「稲刈り」の女たちというジェンダーの区別もまた鮮明に描かれたことになる。

ただしここでは「ふるさと」の歌に限定しているので、まもなく始まる太平洋戦争に関する歌は別の機会に紹介したい。