そうした手のひら返しの連続は、権威に対する不信を必ず増大させます。戦後で言えば教師たちの変節を目の当たりにして育ち、やがて「既存の権威への不信」を究極までこじらせたのが江藤淳(文芸評論家。1932年生)でした。きっとアフターコロナでも無数の「プチ江藤淳」が育ち、「大学育ちの学者は死ね。お前ら嘘つきの語る歴史なんか信じない」と罵声を浴びるようになるのではと、僕はいまから恐怖に怯えていますよ(笑)。
強調は今回付与
コロナでもウクライナでも、知的な権威だったはずの専門家がまちがえて、大手メディアの全体がそちらに引きずられた。そんなことは、少しでも自分の頭で考えていれば、すぐわかる。学歴も社会経験も関係ない。
コロナはあくまで擬似的な「戦争」で、ウクライナは遠いよその国の戦争だから、そうした失敗は、8月15日ほどには衝撃でないかもしれない。だがその分、意識せずには浮かび上がらない見えない敗戦として、心的外傷のような影響を残し続けないとも限らない。
今回の私の仮説の当否は、たとえば今後の選挙によって検証できるから、結論を焦る必要はない。ただし、それこそ「ワクチン」のように、前もって打つことのできる対策がある。
① メディアが自らのまちがいを省みて、原因を探ること。 ② 専門家はそうした内省においてこそ、積極的に語ること。 ③ 読者や視聴者は、どれほど自身の限界を認め、誠実に反省したかをもって、報道機関や言論人の真贋を見極める目を持つこと。