ロシアの国益優先
まず(1)の行動原理は、ロシアの軍人がロシアの国民としてウクライナの民間人の命よりもウクライナ領土を占領する国益を優先しているというものです。
地政学的な環境から考えれば、欧州向けの天然ガス・パイプラインの要衝で黒海にも通じるウクライナを侵略することはロシアにとって単純に政治的・経済的利益となります。しかしながら、国際法違反の一方的な現状変更によって利益を大きく上回る大きな政治的・経済的代償をロシアが支払わなければならないことを軍人も同時に認識しているものと考えられます。加えて、仮にロシアがウクライナを占領したところで、その政治的・経済的利益をロシアが享受することを国際社会は認めないはずです。
また、プーチンは軍事作戦の理由として「ロシアの自衛」を目的にしているかのように主張していますが[ロシア大統領公式ウェブサイト]、まず侵略を受けた当事国であるウクライナにはロシアの領土に軍を展開して維持する【戦力投射能力 power projection capability】がないのは自明であり、ロシアへの侵略が不可能であると同時に侵略を行う合理的動機もありません。また、ロシアが軍事的脅威とするNATOは【集団的自衛権 right of collective self-defense】のフレームワークであり、常任理事国ロシアの反対で国連決議が絶対に可決しない状況下において、NATO加盟国に対して領土を侵略しない限りロシアがNATOに侵略される可能性はありません。そのことはロシアの軍人も当然認識しているはずです。
このように、常識的に考えれば、ロシアの軍人が国益に貢献すること自体を民間人殺害の行動原理にすることは考えにくいと言えます。
ウクライナの道徳の否定とプーチンの倫理の肯定
次に(2)の行動原理は、ロシアの軍人がウクライナ人の民間人の命よりもロシアの正義を優先する【帰結主義 consequentialism】の倫理を追及しているというものです。
【プロパガンダ propaganda】に長けたプーチンは、テレビ局のRT、通信社のスプートニク、SNS等を利用して国民向けの情報操作・心理操作・倫理操作を展開しています。プーチンのプロパガンダは大きく2つに分けられ、一つは敵の【悪魔化 demonization】、もう一つは味方の【偶像化 idolization】です。
<敵の悪魔化>
■ゼレンスキー政権はネオナチだ
■米国はNATOを東方に拡大しないと約束した
■ウクライナ東部でロシア系住民のジェノサイドが行われた
■ウクライナは生物兵器を開発している
■ウクライナは核兵器を開発している
■ウクライナ軍が最初に戦争を始めた
■ウクライナの被害は自作自演だ
■西側の制裁強化は宣戦布告だ
<味方の偶像化>
■ロシア人とウクライナ人は歴史的に一体だ
■ロシア軍はウクライナには侵攻しない
■ウクライナ侵攻は自衛のための特殊作戦だ
■ロシア軍の攻撃対象は軍関連施設のみだ
■ロシア軍はウクライナの都市を空爆していない
■ウクライナ戦争は西側のでっち上げだ
これらはいずれもロシアの侵略を【正当化 justification】あるいは【弁解 excuse】する明確な虚偽、好都合な認識、そして検証不可能な情報で構成されています。これによってプーチンは、ウクライナの道徳を否定し、プーチンの倫理を肯定しているのです。
プーチンが国内メディアを完全に掌握して徹底的な情報統制と情報操作を行う中、多くのロシア国民はプーチンのプロパガンダをそのまま受け入れてしまっているものと考えられます。そしてそれ以上に、行動を完全に管理された軍人に対してはより厳格な情報統制と情報操作が行われていることは自明であり、彼らの洗脳を解くことは極めて困難であると考えられます。
そもそも、ロシア国民にとってプーチンは、エリツィンの急激な新自由主義経済の失敗によって極度に経済が低迷して財政が悪化した1998年のデフォルト時に彗星のように現れたカリズマです。プーチンが大統領に就任後、米国911テロと湾岸戦争が発生し、幸運にも石油価格が数年にわたって右肩上がりに上昇、石油輸出で成立しているロシア経済は顕著な成長を続けました。その後2014年のクリミア併合によって人気を得たプーチンは「偉大なロシアの復活」という【ナショナリズム nationalism】を刺激する勇ましいスローガンを掲げた【ポピュリズム populism】によって、国民の圧倒的な支持の下に政治的統制と経済的統制を強める【全体主義国家 totalitarian state】を確立し、【独裁者 dictator】として君臨するようになったのです。
軍人は自らの攻撃によって罪もない民間人が殺害されていることについては百も承知であると考えられますが、プーチンによる洗脳を解くことは簡単ではありません。ロシアの軍人にとって、プーチンのプロパガンダは、【加害 assault】については認めるものの倫理的な【責任 responsibility】については認めない「弁解」の根拠を与えているのです。