多くの場合、親が「勉強しなさい」と押し込み、学校の先生が宿題を出し、クラスメートが今度の試験の話をささやきあう中で「勉強しないとヤバいぞ」という気にさせます。ただ、そこに本心から勉強をしたいという気持ちが必ずしもあるわけではなく、やらされ感満載という人が過半数ではないかと思います。
一方、勉強の意義を意識できるかどうかは子供一人ひとりがその目的意識を明白に理解しているかどうかであります。もちろん、子供にはそんな明白な意識はないので綿菓子のようにつかんだ実感がわかないことも多いと思いますが、上述の看護師のケースのようにその時は気がつかなかったけれど後で「あれは凄く良い仕事」と思うことはあるわけです。
その一番身近な影響力は親の仕事だと思います。小学校の子供たちに「皆さんのお父さん、お母さんがどんな仕事をしているか聞いてきてそれを原稿用紙2枚に書いてきてください」という宿題はきっとあるのでしょう。なぜなら子供たちは親が何をしているのか案外ほとんど知らないケースが大半だろうと察しているからです。
お父さんは朝7時に会社に行き、夜の7時に帰ってきます、ここは事実関係として知っているけれどその12時間に何があったのか、例えば会社はどこ、どんな部署、どんな人たちが働いていてお父さんはその中で何をしているのか、ということをしっかり理解しているケースは少ないと思います。
お母さんがスーパーでパートをしているとしてもどこのスーパーで何をしているのか、どんな客とどんなやり取りがあるのか、店の社員さんはどんな人で何が楽しいのか、あるいは大変なのか、という理解はほとんどないと思うのです。なぜ、お母さんはパートに出なくてはいけないのか、これすらわからないわけです。大人になった時自分の母親はパートに出ていたという事実だけが記憶に残りなぜそれが求められたかを理解することはないわけです。
10数年前にテレビ番組で「お父さんの会社に行ってみた」的な番組があったのですが、あれはきっと批判された気がします。なぜならクラス内での差別化が公然と行われるようなもので「〇〇君の家はいいよね、あんな立派な会社に勤めてさぁ。うちなんかさぁ…」という意識です。なのでクラスで発表しなくてもよいので原稿用紙に書く、先生と生徒だけのやり取りに留めるという工夫は必要でしょう。
教育とは学校の授業が半分、もう半分は経験値と実社会の理解の積み上げが半分だと考えています。その時に新しいことを見聞きし、「なぜ」を繰り返し感じることで自分が勉強することが必要なのか理解できるようになるのではないでしょうか?
都知事選の候補者たちが教育に投じるお金のことを一生懸命訴えていますが、それは二次的な話であり順番が逆なのです。クラスメートはさまざまな背景や個性を持つばらばらな集団であるという前提で皆が様々な意見を述べ、輪を作り、議論をして、双方の意見を尊重する意識を持つことが大事なのです。