拙著、72頁(段落を改変)

いまの時代は、「すべてが最初から完成品であってくれ!」みたいな願望が強すぎる。生まれた瞬間、いきなり歩けて算数ができる赤ん坊がいないのと同じで、そんなこと起きるわけないのに。

ところが世の中には困った人たちがいて、「私は初めから完成品です。さぁみんな、100%の正しさを持つ私の主張だけをリツイート!」と言い張ればウケる・売れる・自己承認欲を満たせると。ついつい、そうした誇大広告でビジネスしたくなっちゃうらしいんですなぁ。

そういう人は、呼ばれてもないのに他人のアトリエに首をつっこみ、「こんなのダメ!」「未完成でつまらない!」とケチをつけて回る。そりゃイノベーションも起きないですよ、テストプレイ段階で潰されちゃうんだから。

なにより、それやってたらいつか「あんさんはホンマにそこまで完成してるんすかぁ? その完成はいまの話題と関係あるんすかぁ? 実績を確認させてもらってもいいすかぁ?」みたく、やり返されますよね(苦笑)。

前回の記事で、R. ホガートと佐藤卓己さんの読書論を引いたように、どこかにすごい人がいて完成品を届けてくれる、とする発想は、別にすごくない多くの人たち(=私やあなた)を「見物人の世界」に押し込める。要は、みずから試行錯誤する主体性を失い、悪い意味でただの消費者になってしまう。

そうではなく、誰もが自分で楽しみを見出し、周囲と歓びを分かちあう「おれたちの世界」でこそ、「より積極的な、より充実した、もっと協同で楽しむ種類の娯楽」が育つ。ゲームを囲んで互いに助言しあい、こうしたらさらに面白いかも、と感想戦を語りあうのは、そのいちばんシンプルな実践だ。