そんなテストプレイの際のコツとして、印象に残る記述がこちら。
プロトタイプは試作品です。とくに最初のプロトタイプは赤ん坊だと思って愛してください。ぼくは、学生がゲームのプロトタイプをつくって、みんなで見せ合うときにこう言っています。
「赤ん坊に『歩けないからダメ』『算数できないからダメ』って言わないだろ? これがない、ここがダメとか言うのではなくて、みんなで育てていこうという気持ちで見ること。かわいいねー、楽しいねー、って良いところを伸ばすように愛すること」
ぜひ、この気持ちで自分のプロトタイプに接してみてください。遊んでもらうときも、このことを伝えてください。
75頁(強調は引用者)
(ぼくはゲームは作ったことないけど)これなんですよねぇ。いまの日本社会が行きづまった理由の根源って、こうしたプロトタイプ段階を「認めない人」が増えすぎたからだと思うんすよ。
たとえばSNSって、最初は思っていることのプロトタイプを見せあい、互いにブラッシュアップする場所だったんですよね。なので「あ、それ(粗削りだけど)面白いすね!」みたいに、ポジティブな声がけが飛び交うはずでした、本来は。
ところがそれが変わってしまう。前に哲学者の千葉雅也さんの指摘を、2022年の『過剰可視化社会』で引いたことがあります。
千葉雅也さんは『意味がない無意味』(河出書房新社)に収録されている2014年のエッセイで、彼が07年から利用してきたツイッターの変容について、興味深い比喩で語っています。 元々は思いついたアイデアをなんとなく口にし、相互にやり取りする中で修正を繰り返して作品に仕上げていく「アトリエ」であり「変身」の場がツイッターだったのに、そうした性格が消えていった。 むしろ完成しきった自分の思想や政治的な立場をポジション・トークのように披露し、ぶつかり合うだけの硬直した空間になってしまったと。 (中 略) 人に「見せる」以上は完成形でなくてはダメで、途中で考えや立場を変えてはいけないんだとするプレッシャーが強まり、老熟はおろか「成長」や「成熟」といった概念さえ、成立しない世の中が生まれているように思います。