くわえて、中国が西部方面での戦いに兵力を集中するため、東部の朝鮮と平和を継続するのも戦略上、合理的です。なぜなら、二正面や三正面作戦は戦力の分散につながるために、彼我の戦力比が不利になることを避けて、できる限り一正面で戦うのが定石だからです。
さらに、中国からすれば、朝鮮を日本からのパワーの投射を吸収する「緩衝国」と位置づけたとしても、それは理に適っています。16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮への侵攻の再来は、清も避けたかったことでしょう。実際に、徳川幕府は清を攻撃するために、明の残党と同盟を組むことを真剣に検討したといわれています(「歴史上の東アジアにおける国際秩序」83頁に引用)。
要するに、清は日本に対するバランシング行動をとったり、同国を刺激しかねない朝鮮征服を避けたりする十分なインセンティブを持っていたと推論できるのです。
この研究ノートにおいて、著者たちは「清の台頭にともない、韓国(朝鮮)は安定的な北方の国境を形成することができた。しかし、中国は清朝で西方への拡張を続けた」(p. 772)といっています。このことは上記のように標準的なリアリズムで説明できる一方、儒教文化や朝貢体制と中朝の平和を結びつける因果関係を示す直接の証拠は一つも明らかにされていません。
この研究ノートがアヘン戦争前の東アジアでの戦争や紛争のデータセットを提供した意義は認めますが、中国の「平和発展」のイデオロギーを追認しかねない、ケイン氏の「アジア特殊論」すなわちヨーロッパと異なり、中国の覇権は今も昔も平和的だという主張には、我々は十分に注意すべきであり、懐疑的であるべきです。
こうした中国による朝貢体制を平和の源泉とみなすことに批判的なピーター・パデュ氏(イェール大学)は、ケイン氏らの主張をバッサリとこう切り捨てています。
中国の軍事科学院の推計によれば、紀元前770年から西暦1912年まで、中国の諸国は3,756回の戦争を行い、その年平均は1.4回となる。明朝は対モンゴルだけでも4年毎に少なくとも1つの紛争を始めている。