ゴミ処理場には、現在の江東区周辺の低湿地が利用され、それにより江戸時代のゴミ処理システムが確立されました。
江戸の住民が自らゴミ処理場まで運ぶことは難しかったため、専門のゴミ回収業者が登場し、船を使ってごみを処分場へ運搬していました。
このシステムは、現在の清掃業務に近く、当時としては非常に先進的であったのです。
1662年には、「浮芥定浚組合(うきあくたじょうざらいくみあい)」が組織され、ごみの運搬と処理を効率的に行いました。
また、ごみの中からリサイクル可能なものは選別され、農家や鍛冶屋などに売却される仕組みもあったのです。
現在のごみ収集は税金で賄われているものの、当時は排出者負担の原則で運営されており、家賃に処理費用が含まれていました。こうしたシステムは、リサイクル社会を形成する基盤となり、現代のごみ処理にも通じるものがあります。
ゴミは天下の周り物であった江戸時代
前節では幕府が行ったごみ対策のあれやこれやを眺めてきたわけですが、それ自体は現代の目から見ても特段変わったものではなく、感心するところもさほど多くはございません。
むしろ、江戸という町が実に優れていたのは、都市全体がひとつの壮大なリサイクルシステムとしてきちんと機能していた点でありましょう。
何かを捨てるということが滅多になく、壊れた物、不要な物、それはすぐさま専門の業者の手に渡り、修理され、あるいは再利用され、新たな価値を与えられて再び町に現れる。
新品と同じくらい、いや、もしかするとそれ以上に中古品や再生品が市場に溢れていたのです。
この江戸の町を縦横無尽に駆け巡るリサイクルの仕組みを支えたのは、今で言えばリサイクル業者、当時の言葉で言えば屑屋、あるいは修理商人たちでありました。
第一に、「職商人」という人々です。