平氏は、それを分かったうえで、①自ら銅銭を作って流通させて「通貨発行益」を得るのではなく、②鋳造費用よりも低い価値で流通している南宋の銅銭を日本に持ってきて、市場価値に沿って(あるいは通貨発行益を乗せて)流通させ、「通貨発行益」を得る政策を採ったのでしょう。

平氏が富を得ただけでなく、旧来の権力者を没落させた!

宋銭が流通し始めるまで、朝廷の財政が絹を基準として賦課・支出を行う仕組みとなっていたように、絹が通貨として機能していました。そのため、絹は、衣服の素材としての価値に加え、通貨としての価値が上乗せされて評価されていた、いわば、「のれん」が乗っていた訳です。

しかし、宋銭が流通しはじめることで、絹の持っていた通貨としての価値が失われ、絹の価値が下落しはじめました。

宋銭を流通させようとする平氏と、反対する後白河法皇の確執が深まった1179年、法皇の側に立っていた松殿基房や九条兼実が「宋銭は朝廷で発行した通貨ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」として、宋銭の流通を禁ずるように主張したという記録があります。

旧来の権力者たちがこれほど攻撃的になったことも、平氏の通貨政策により、従来の権力者たちが大量に所有していた絹の価値を下落させることで従来の権力者の富を奪っていった影響がいかに大きかったかの現れと言えそうです。

「奢れるもの久からず」とか、平清盛は東大寺を焼き討ちにした祟りで熱病になったとか、平氏は酷い言われようをしてきましたが、平氏の通貨政策は、800年以上前とは思えないほど巧妙だったと思うのです。

ひるがえって、21世紀の仮想通貨に関する状況を見ると、従来の権力者たちが、自国領内でビットコインなどが流通するのを見過ごすだろうか、通貨発行権をそう簡単に手放すだろうか、という懸念はやはり残るのです。