人は富む人も貧しい人もそれなりで物を所有している。その中には貴重な思い出の物品や写真もあるだろう。それらが突然、破壊され、吹っ飛んでしまったのだ。生きてきた証でもあった貴重なものがなくなった場合、人はどれほど失望するだろうか。ハリケーンに怒りをぶっつけるか、政府の対策不足に抗議するか、敬虔なキリスト者ならば神に一言恨みを吐くか、さまざまな反応があるだろう。
仏教では「捨離」という言葉がある。自身の所有するものを捨て、それへの執着を捨てて生きていくことを教える。聖書のヨブ記で「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな」という世界に通じる思想だ。
旧約聖書の「ヨブ記」を読まれた読者も多いだろう。主人公のヨブはイスラエル人ではない。話も舞台もイスラエル人が住んでいた地域ではなく、中近東地域に伝わっていた民話だ。信仰深いヨブはその土地の名士として栄えていた。神は悪魔に「見ろ、ヨブの信仰を」と自慢すると、悪魔は神に「当たり前です、あなたがヨブを祝福し、恵みを与えたからです」と答えた。そこで神は「家族、家畜、財産を奪ったとしてもヨブの信仰は変わらない」と主張。それを実証するために、ヨブから一つ一つ神の祝福が奪われていった。理由なくして苦行に陥っていくヨブの姿にユダヤ人は驚いた。
イェール大学の聖書学者、クリスティーネ・ヘイス教授は「ユダヤ教では、いいことをすれば神の報酬を受け、そうではない場合、神から罰せられるといった信仰観が支配的だったが、ヨブ記は悪いことをしていない人間も試練を受けることがあることを記述することで、従来のユダヤ教の信仰観に大きな衝撃を与えた」と説明し、「ヨブの話は、苦境にある人に対し、安易に批判してはならないことを教えている」と述べていた。ちなみに、ヨブは神への信仰を守り、最後は昔以上に多くの祝福を受けるという話で終わっている。