だから、「円高でも戦える産業を構想する能力」が当時の日本にはなかったんだから、しばらく「安売りしてでも自分たちを売り込む経済にしよう」という方向に行った事自体は誰も否定できない必然としてあったと言えるはず。

それは「国民の総意」みたいなものなんで、否定しても仕方ないんですよね。

なぜなら、あの時の「民主党時代」の流れのままでただ突き進めば、アメリカが「ラストベルト(錆びついた製造業地帯)」と呼ばれるようなゾーンを国内に多く抱えて、政治的に強烈な不安定さの原因になってしまったような状況になっていたことはほぼ疑いないからです。

「日本版ラストベルト」があちこちにできて、社会がもっと殺伐として街には薬物中毒者が溢れてる状況と(しかもその上でアメリカみたいに高度産業を伸ばすことができない可能性もあった)、「今のなんとなく安定はしてる日本」と、どっちが「今後の可能性」が開けているか?という話を考えてみるべきなのだと思います。

  1. 「平成時代の呑気さ」は国民の望みだった。これからの変化の時代も同じ。

    その「平成時代のまどろみ」みたいなのは、「とにかく個人の力を全開にして徹底的に活躍したい」人には息苦しい時代だったかと思います。

    でも「平成時代の呑気さ」を懐かしんでる国民は結構いる体感はあるんですよね。

    私は経営コンサル業のかたわら趣味で色んな人と「文通」しながら人生について考えるという仕事もしていて(ご興味があればこちら)、そのクライアントには20代から上は70代まで老若男女いるんですが…

    ある30代の「平成時代が青春だった」という男性が言ってた以下のような話がすごい印象的でした。

    (生まれてこのかたずっと不況不況って言われ続けてきたけど)「どんどん便利に、どんどん安く、どんどん痒いところに手が届くように」なるという形で、俺が生きてきた平成時代にも「豊かさ」は右肩上がりに進行していた、という感覚があります。