聖書では約300回、「悪魔」が登場してくるが、「悪魔」はキリスト教の専売特許ではない。キリスト教以外の宗教や文化でも「悪魔」について様々に考えられており、それぞれ独自の視点を有している。キリスト教において、悪魔(サタン)は堕落天使として描かれ、もともとは神に仕える存在だったが、神に逆らい、堕落して悪の象徴となった存在だ。聖書の記述では、悪魔は自由意志を持ち、神の創造計画を破壊しようとしている。ただし、悪魔は神と対等の存在ではなく、被造物の一つだ。悪魔は一時的に人間を誘惑し、試す役割を果たすが、最終的には神によって打ち負かされる運命にあるという。
キリスト教の神学にとって最も難解な問いは「なぜ神が創造した世界に悪魔が存在するのか」だ。神学的な観点からは、悪魔の存在は自由意志の結果であるという。神は被造物に自由意志を与えたが、悪魔はそれを使って神に反逆した。神が悪を直接創造したわけではないという。
イスラム教でも、悪魔(イブリース)は神に背いた存在だ。イブリースはもともと天使のような存在だったが、神に対して人間への服従を拒否したため、堕落した。イスラム教における悪魔も、人間を誘惑し、神の道から逸脱させようとする働きをする。アブラハムを「信仰の祖」とするイスラム教は悪魔についてはキリスト教とほぼ同じ解釈をしている。悪魔の存在は、信仰者に対する試練や誘惑の役割を果たし、信仰心の強さを試す存在として理解されている面がある。
一方、仏教ではキリスト教やイスラム教のような神と悪魔の二元論的な存在はないが、悪の概念は存在する。仏教においては、「煩悩」や「無明」(無知)が悪の根源とされている。これらの煩悩が人間を迷わせ、苦しみの輪廻に縛り付ける原因とされている。仏教の伝統にはマーラという悪の象徴的な存在がある。マーラは人間の悟りを妨げ、煩悩や執着を通じて人々を苦しみの世界に引き戻そうとする役割を担っている。仏教では、悪は個人の無知や執着から生じるものとされ、外的な悪の力というよりも、内面的な問題と考えられている。