当時の警察と検察は強引であっただろうと推察します。1966年はまだ戦後の成長期で無茶苦茶な時代の名残がありました。今のように取り調べにおいて人権は確立されず、いったん取り調べとなればとことんやられ、人間否定し、時として拷問の状況下で自白を強要するようなケースは多々あったと思います。袴田事件のように有名なケースにならずとも冤罪は一定数、あったのではないでしょうか?
例えば1948年に起きた「帝銀事件」は知る人ぞ知る有名な事件です。「集団赤痢が発生したのでこの薬を飲むように」と、閉店後の帝国銀行椎名町支店を訪れた犯人は行員に青酸カリを飲ませ、12名を殺害、強盗をします。その後、平沢貞通氏が逮捕され、その後、平沢氏は無罪を主張するも獄中死しています。この話は松本清張氏の小説も有名ですが、私自身が椎名町のそばに住んでいたこともあり、この帝銀椎名町支店があった場所もよく知っています。あの頃はGHQの影響下という時代背景もあり実に不可解な事件ながら警察の無理な取り調べは戦前の特高警察に近いものがあったように感じます。
バブルがはじけた後、私の元上司が業務に関係し、東京地検でとっちめらた際も連日長時間にわたり激しい取り調べを受けました。本人からその克明な話をリアルタイムで聞いていましたが、取調室のテーブルの上のスポットライトを顔に向け、「吐け!」と極めて強い口調で押し込み続けられ、途中何度も「くじけそうになり」「はい、やりました」と言いそうになったと述べていました。やっていなくても「吐けば楽になる」と思ったと言っていたのが極めて印象的でありました。元上司は結局捕まることはありませんでしたが、非常に厳しい余生となりました。
裁判の判断は時代と共に変わります。それは世論形成をある程度くみ取るためで極端な話、20年前と今では同じ事件でも判断が変わることは大いにあり得るのです。その中で袴田事件はあまりにも検察側が抵抗しすぎたと考えます。つまり、再審決定したのが23年3月でそれまで再審請求が2度行われ、いったん開始になるも再び取り消しになるなど紆余曲折したのは司法手続きと検察の意地そのものだったと思います。検察はプロセスにおいて完敗であって素直に負けを認めるべきです。まさかこれで控訴したら世論は検察に激しいバッシングをすることになるでしょう。