ところが、大探検の経済的成果は乏しいものであった。天明6年2月、江戸に戻った佐藤玄六郎の第1次調査の報告を受けて松本は、具体的な蝦夷地政策を提案したが、その提案書には鉱山開発の計画は見えない。噂に反して、蝦夷地の金銀銅の埋蔵量は少なかったのであろう。

ロシアとの貿易についても、実際の日本人とロシア人の密貿易は小規模で、ロシアが日本との交易に熱心であるという話はかなり誇張されたものであった。しかも、ロシア人がもたらす商品は長崎貿易の輸入品とほぼ同じで、ロシアとの貿易には大きなメリットがないことが判明した。松本は当面はロシア貿易の必要なしと結論づけている。この提言を受け、田沼はロシアとの貿易の実施を見送った。

代わりに松本が提案したのが、蝦夷地における大規模な田畑の開発であった。ロシアとの貿易という大胆なプランが消えて、新田開発という新味のない案が出てきたわけだが、その規模は空前絶後であった。

蝦夷地本島の面積を1166万4000町歩と試算した上で、その10分の1が耕地化できると仮定すると116万400町歩。内地では一反の田から一石の米が収穫できるが、蝦夷地ではその半分の5升の収穫が見込めると仮定すると、石高は583万2000石となる。

歴史学者の藤田覚氏は「この新田開発計画が実現すると、当時の日本全国の石高を3000万石と推定すると、一挙に20パーセントも増加し、単位面積あたりの収穫量が内地並みになれば、40パーセントも増えることになる」と指摘している(『田沼意次』ミネルヴァ書房)。蝦夷地というフロンティアに夢を描いたのだろうが、気宇壮大すぎて、雲をつかむような話である。

言うまでもなく、これだけの大開発を行うには、膨大な労働力が必要である。その数は10万人と試算された。アイヌだけでは当然足りないので、穢多・非人と呼ばれていた被差別民7万人を移住させることを検討している。アイヌや被差別民が農業従事を望んでいるかどうかも不明であり、絵に描いた餅に見える。仮に労働力はまかなえたとして、開発に必要な巨額の資金はどのようにして捻出するつもりだったのだろうか。