18世紀には、ロシア人が千島列島を南下し、東蝦夷地の要地である厚岸にまで姿を現すようになった。これまで幕府は蝦夷地の経営を松前藩に完全に委任していたが、ロシアの野心をオランダが警告するに及んで、対ロシア防衛の最前線として蝦夷地に目を向けるようになる。その先駆者が田沼意次であったとされる。
仙台藩医で蘭学者の工藤平助は天明元年(1781年)から同3年にかけてロシア研究書『赤蝦夷風説考』(全2巻)を著し、ロシア人の南下を説き、北辺の防備と、ロシアとの貿易の必要を論じた。
工藤平助の娘、只野真葛の随筆『むかしばなし』によると、平助と面会した田沼の家臣が、平助の北方開発論に興味を示し、主君に構想を伝えるために1冊の本にまとめてほしいと平助に要望した結果、執筆されたのが『赤蝦夷風説考』だという。
案の定、田沼は『赤蝦夷風説考』に関心を抱き、その検討を勘定奉行の松本秀持に命じた。天明4年(1784年)5月16日、松本は蝦夷地政策の方針案を田沼に提出した。松本の案で強調されていたのは、蝦夷地の鉱山を開発して金銀銅を採掘し、それを輸出してロシアと交易するというものであった。
松本の検討は田沼の意向に沿ったものであろうから、鎖国から転換しロシアとの交易を公式に行うという松本の考えは、田沼の考えでもあったと思われる。田沼の関心は、蝦夷地の鉱山開発と対ロシア貿易に向いていて、海防(国防)は軽視していたようである。
鉱山開発とロシア貿易の実現可能性を調査するため、田沼は天明5年(1785年)から同6年にかけて、佐藤玄六郎を隊長とする調査隊を蝦夷地へ派遣した。調査隊は二手に分かれ、東蝦夷班の青島俊蔵・山口鉄五郎・最上徳内らは千島列島をクナシリ(国後)・エトロフ(択捉)からウルップ(得撫)まで探検した。
西蝦夷班では天明5年に庵原弥六らがカラフト(樺太)に渡って海岸沿いに90里を踏破した。宗谷に引き返した庵原は越冬中に病死し、翌天明6年に大石逸平らが第二次調査隊として再びカラフトに渡り、ナヨロ(名寄)まで至った。