計画されたミッションを完遂、その後、数奇な運命をたどって月面に到着

「ひてん」は90 年1 月24 日、鹿児島県内之浦から打ち上げられ、地球を回る楕円軌道に乗せられた。その後、軌道を変更した後、3 月19 日未明に順調に月に接近した。月に最接近する27 分前に子機「はごろも」が切り離され、小型ロケットの噴射で月の軌道を回る孫衛星となった。月孫衛星実現は、米ソに次ぐ世界で3 番目の快挙であった。

 一方、親機である「ひてん」のほうは、月から1万4472km の距離で最接近し、第1 回スイングバイを実施した。月の重力に引っ張られて大きく加速され、「ひてん」の軌道は2倍以上の大きな楕円軌道に拡がった。スイングバイの威力絶大である。米ソに続く世界で3 番目のスイングバイ実験が成功裏に終わった。「ひてん」は、その後も宇宙工学実験衛星としての実験を縦横無尽に行い、まとめると次のような輝かしい業績を上げた。

(1)10回の月を使ったスイングバイ実験(世界で3番目のスイングバイ実験)
(2)世界初の「二重スイングバイ」(加速スイングバイと減速スイングバイ)
(3)世界初のエアロブレーキ実験(地球の大気を利用して減速)
(4)孫衛星「はごろも」を月の軌道に投入(世界で3番目)

 計画されたミッションをほぼ100点満点で達成し、普通なら「お役目ご苦労さま」とここで任務終了となるはずであった。ただ、実験が順調に進んだ結果、燃料が少し残っていた。さらに、アメリカのNASAジェット推進研究所から、次のような提案があった。

「探査機をいったん地球の重力圏の限界近くまで飛ばし、太陽重力の影響を利用して高度を上げ、さらにスイングバイを行って軌道を月に導けば、わずかな燃料で『ひてん』を月周回軌道に投入できる」

 いわば、省エネ航法の勧めであり、これが宇宙研の技術者の背中を押し、もともとの計画にはなかった「ひてん」の月の軌道への投入が試みられることになった。8カ月くらいかけて「ひてん」は月に接近・減速して、1992 年2 月15 日に月の軌道に乗った。月を回りながら1年以上さまざまな実験を行い、最後に与えられた大仕事が、将来の月軟着陸を見据えた「制御された月面への着地(衝突)」である。残されたわずか1kg の燃料を使って軌道修正を行い、月のフレネリウス・クレーター付近が着地点となった。着地時刻は1993 年4 月11日3時3分24.5秒であり、計画との誤差はわずか0.4秒であった。

 ところが、である。この月面到着は、宇宙研の当時の監督官庁である文部省(現文部科学省)を大いに驚愕させてしまった。計画してもいない月面到着を許可なく勝手に実施したということで、宇宙研の幹部は文部省へ出向き釈明する羽目になった。

 こんな背景から、宇宙研も「世界で3番目に月に探査機を到着させた」ことを大々的に発表する記者会見は行わず、淡々と「月に衝突して任務を終えた」と発表するのみであった。当時の新聞では「ひてんが月面に落下」という数行の記事で報道されるのみであった。

 しかし、「ひてん」への世間での評価はともあれ、30年前に「ひてん」によって獲得されたスイングバイ技術や軌道制御技術が礎となって、今回の月探査機スリムのピンポイント着陸の成功があったと考えれば良いのであろう。