(1)すべてに対するあらゆる人の暴力が破壊の危険をもたらす社会では、国家の役割は、この暴力を鎮圧し一定の方向に導くことである。国家はそれを行使する権限を与えられている唯一の存在であるため、暴力を鎮圧するが、国家自身の暴力は法によって厳密に規制されなければならず、いかなる状況下でも自らの裁量で行うことはできない。法によって、それは導かれるものである。

(2)政治の領域では、権力の制度化により、権力を掌握するための闘争が規制され、国民の安全と両立する構造(formes)を権力に与えることが可能になった。その権力の獲得はもはや武力によるものではなく、一定数の国民による規制を尊重することを前提とし、その筆頭は普通選挙である。ここでの国家の機能は、政治分野を調整し、身体的な暴力を排除することである。

法治国家の確立と個人の自由

要するに、国家が抑圧的な機構に変質するのを防ぐための解決策は、法治国家を確立することである。ここで個人は国家の恣意から保護される(ibid.:223)。

国家が抑圧的な機構にならないようにするための2番目の解決策は、公的問題への国民の参加を奨励することである。積極的な市民権は、個人の原子化状態と戦うことと国家の抑圧を軽減することの両方を可能にした注11)。

ただし、社会的規制の名の下に、国家は個人を抑圧することができる。もちろんこの抑圧は避けられないものではなく、国家の法への服従と市民権の促進を条件として個人の自由は維持される。

socialの原意の違い

一般的にいえばフランス語のsocialには福祉という意味があるが、英語ではないに等しく、日本語では全くない。では、「社会」を使う日本語ではどうするか。

それを国家論にからめて文献を探していたら、高岡裕之(2024)に出合った。以下、詳しく検討してみよう。

ためらいが感じられる「社会国家」使用

高岡はドイツ語のSozialstaat「社会国家」を背景にして、日本の日中戦争期から太平洋戦争期の「総力戦」の戦時体制の国家に対して「社会国家」を適用した歴史学の作品を刊行した注12)。