家康が天下人になれたのは、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに勝ったからです。
ただ、実はこれ以前にも一度、家康は天下を取りに出た過去があります。それは、有名な小牧長久手の戦いです。
これは、信長の死に乗じ嫡孫の織田秀信を担いで天下取りに乗り出した秀吉と、信長の次男である信雄に頼られた家康が争った戦いでした。
先述の通り、家康は秀吉に臣従することになったわけですが、家康は決して秀吉に敗れたわけではありませんでした。
むしろ、実戦で優勢だったのは家康だったと言われています。それなのに、なぜ家康はこの戦いを終わらせ、和議を結び臣従したのでしょうか。
その理由として、真田家の抵抗に遭い北条氏との同盟条件を満たせなかったこと、1583~84年にかけ、大雨や地震による天災の影響で戦況維持が困難になったことなどが考えられています。
戦で負けたわけではなかったのです。
いずれにせよ、私はこのとき臣従の決断ができたからこそ家康は後に関ヶ原で勝利を得ることができ、天下を取れたのだと思っています。
そしてその決断をどのように導き出したかは、現在のリーダーたちにも非常に参考になるはずです。
家康に学ぶ「泣かぬなら 泣くまで待とう ホトトギス」
家康の戦略立案やマネジメントを表現する際に用いられる有名な川柳です。
家康は待つことができた、言い換えると、時機を見極める能力に秀でていたということになります。
小牧長久手の戦いの頃、信長がクーデターによって急逝したことで訪れたチャンスを掴むべく、全国の猛者たちが台頭するチャンスを窺っていました。
天下を取るにはそんな彼らを全て屈服させなければなりません。いかに一対一なら最強の三河武士であっても、徳川家単独で日本全国を相手取って武力で上回ることは不可能です。
ですから、外交が不可欠になります。その外交を優位に進める決め手が、まだ家康にはありませんでした。