民主主義の世界では多様性が重視され、自由を最大限に擁護する傾向があるが、その一方、宗教的な神聖な対象への無関心が拡散してきた。そのような社会では他者の信仰の自由、信仰心への理解が乏しくなっていく。そして多くはそのことに気がついていない。一方、神聖なシンボル、対象がない社会ではその代償行為として独裁者の像を建立し、その前で頭を下げる、という状況が生まれてくる。

最後に、無神論者の嘆きを紹介する。

独連邦議会の野党「左翼党」幹部のグレゴール・ギジ氏(Gregor Gysi)は、独国営放送ZDFのマルクス・ランツ司会の娯楽番組に出演し、そこで「自分は神の存在を信じていないが、神なき社会を恐れている。キリスト教会が主張するような価値観で構築された世界が全く存在しない世界に恐怖を感じるのだ。資本主義も社会主義もその恐怖心を取り除くことができるものを有していないからだ」という趣旨の話をしている(「無神論者が憂慮する“神なき社会”」2017年2月7日参考)。

人は神聖なものに自然と頭を下げようとする。その対象がなくなった場合、人はどうするだろうか。無神論者のギジ氏が嘆く”神なき社会”とは、神聖なものが全くなくなった世界を意味するのだろう。そのような世界では、神を信じる人だけではなく、無神論者も恐怖を感じるというのだ。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年9月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。