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「乗用車は軽に専念して」からの雪辱、G計画
省燃費、省スペースに徹した5平米リッターカー

「乗用車は軽に専念して」からの雪辱、G計画

トヨタ傘下になったダイハツが意地と執念で開発した「G計画」、小型軽量は正義でよー走りました!初代シャレード(1977年)【推し車】
(画像=初代シャレード発売当時、既に横置きFFのジアコーサ式レイアウトやハッチバック車は珍しくなくなっていたが、それをコンパクトな3気筒リッターカーで実用性能と動力性能、取り回し性能などを全て満たしたのが斬新だった,『MOBY』より 引用)

中小メーカーが大メーカーの傘下入りとなると、良くて大メーカーと競合しない車種のみ生産・販売の継続が認められ、悪いと単なる大メーカーの下請け工場になってしまいますが、ダイハツは幸い、商用車と軽自動車が好調でした。

トヨタとしてもダイハツに一番求めたのは、1969年にモデルチェンジするパブリカ(2代目)など、車種も販売台数も増加の一方だったトヨタにとって、自社工場のほか既存の下請け工場だけでは賄いきれない部分の下請け生産だったので、独自車種はある程度自由。

ただしパブリカなどと競合するコンパーノのモデルチェンジは許されず、ダイハツの小型車は2代目バブリカにダイハツ製エンジンを載せたコンソルテ(1969年)や、旧型(E20系)カローラへ独自ボディを架装した「シャルマン」(1974年)にとどまります。

ダイハツとしてはコンパーノを自力開発した自負もありましたし、初代フェロー(1966年)に始まる軽乗用車からステップアップするユーザー向けの小型車を作りたかったのですが、トヨタからは「乗用車はまず軽自動車に専念してください」と、つれない返事。

それでもあきらめなかったダイハツは、1970年代に日本でも主流となってきた、エンジンとミッションを直列に横置き配置するジアコーサ式FF(前輪駆動)のコンパクトカーを企画し、トヨタもパブリカやスターレットより小さいクルマならと、ついにOKが出ました。

それがG計画…後の傑作リッターカー、初代「シャレード」です。

省燃費、省スペースに徹した5平米リッターカー

トヨタ傘下になったダイハツが意地と執念で開発した「G計画」、小型軽量は正義でよー走りました!初代シャレード(1977年)【推し車】
(画像=初代シャレード後期型XTS、後にダイハツの伝統だったこともある、スポーティ系の赤黒ツートンカラーは1981年当時既にあった,『MOBY』より 引用)

ジアコーサ式FFレイアウトを採用した日本車というと、ホンダの軽乗用車、初代ライフ(1971年)や、ライフをスケールアップしたような小型車、初代シビック(1972年)という前例があり、三菱も初代ミラージュ(1978年)で採用します。

ただ、ダイハツの場合はあくまで「トヨタ車と販売面でバッティングしないクルマ」という条件があったので、2代目パブリカより小さいリッターカーで、最大限のキャビンスペースを確保できるジアコーサ式レイアウトのFF車でなければいけません。

しかし当時のダイハツで1リッターエンジンといえば、コンパーノ以来、コンソルテでも使っているFE型があったものの、軽自動車よりちょっと大きい程度のコンパクトカーへ直列4気筒のFE型を横置きすると、前輪の切れ角が確保できないのが難点。

そこで思い切って、軽自動車でもダイハツには前例がなかった直列3気筒で短い1リッターエンジン「CB」型を新開発して、横置きしても前輪のキレ角を確保しました。

エンジンルームなどメカ部分は最低限に、人が乗るキャビン部分は最大限にというと、ホンダのMM思想(Man-Maximum、Mecha-Minimum)を連想しますが、スペース効率の高いコンパクトカーを作るなら、1970年代でも常識となり始めており、ダイハツも当然採用。

こうして、1970年代の日本では珍しい水冷直列3気筒SOHCの1リッターエンジンを積むリッターカーでありながら、広々としたキャビンを持つ3ドア/5ドアハッチバックの「5平米カー」と宣伝された初代シャレードが、1977年11月に発売されました。