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軽専業になりかけたダイハツの執念、起死回生のリッターカー
オート3輪の名門がコンパーノで小型乗用車に参入したものの

軽専業になりかけたダイハツの執念、起死回生のリッターカー

トヨタ傘下になったダイハツが意地と執念で開発した「G計画」、小型軽量は正義でよー走りました!初代シャレード(1977年)【推し車】
(画像=初代ダイハツ シャレード(5ドア) MOBY編集部がAIに聞いた、「30〜50代のクルマ好、『MOBY』より 引用)

MOBY編集部がAIに聞いた、「30〜50代のクルマ好きが気になる名車」シリーズから、特に反響の多かった記事をセルフリメイクしてお届けします。

今回は”「成功したのになんでやめちゃったの?」画期的かつ個性的!元祖リッターカーことダイハツ シャレード【推し車】”で紹介した歴代ダイハツ シャレードの中から、初代シャレードをご紹介しましょう。

1960年代に独自の小型車「コンパーノ」がありつつ、トヨタ傘下になって以降は軽自動車(と、トヨタの下請け生産)に専念させられていたダイハツが、執念で作り上げた画期的なコンパクト・リッターカーはどんなクルマだったのでしょうか?

オート3輪の名門がコンパーノで小型乗用車に参入したものの

トヨタ傘下になったダイハツが意地と執念で開発した「G計画」、小型軽量は正義でよー走りました!初代シャレード(1977年)【推し車】
(画像=コンパーノ(画像はベルリーナ)は1964年の東京五輪でアテネから東京へ聖火リレーの伴走車として使われたが、ダイハツの4輪乗用車進出を安定させるには、少々役不足であった,『MOBY』より 引用)

2020年代も現存する自動車メーカーは戦前からの名門、戦中・戦後の新規参入組に分かれますが、ダイハツは旧社名「発動機製造」時代からその名の通り生粋のエンジン屋であり、自社エンジンを使うオート3輪(3輪トラック)で1930年代に自動車業界へ参入。

その後はマツダと並ぶオート3輪の名門として急成長し、運転免許を取得しなくても乗れる小型3輪トラックメーカーとして、戦前から戦後復興期の日本経済を支えました。

その間、1951年に実験的な3輪乗用車「Bee」を発売したことはあったものの、日本ではイギリスのリライアント ロビンなど3輪乗用車文化が根付かなかったので短期間の販売で終わり、ダイハツは得意の商用車、特にトラックで4輪車へ参入するのに力を入れます。

1960年には初代「ハイゼット」で軽四輪商用車へ参入、そのバンタイプは当時ありがちの「休日マイカー」的な使い方もできる商用車でしたが、本格的な小型4輪乗用車は1963年にバン、ワゴン、ベルリーナ(セダン)が相次いで発売された「コンパーノ」が初。

コンパーノは独立したラダーフレーム上にボディを載せる旧態依然の構造で重いという欠点はあったものの、ボディバリエーションは豊富で、オープンスポーツのスパイダーやピックアップトラック(いずれも1965年)も追加。

モータースポーツでも、第1回日本グランプリ(1963年)こそ未参戦だったものの、その後はコンパーノを改造したPシリーズで空力改善へ果敢に挑み、その集大成としてエアロボディへDOHCエンジンを載せた「P-3」(1966年)へと発展します(※)。

(※その後、鋼管パイプフレームのミッドシップレーサーP5なども作りますが、コンパーノとは無関係)

しかし肝心のコンパーノは販売実績が芳しくなかったようで、軽自動車と商用車だけでは生き残れないと感じたか、1967年の業務提携で実質的にトヨタ傘下へと組み込まれました。