大蔵省も財投の赤字が増え続けるため、郵貯・簡保の資金運用部への預託をやめる方向で改革を進めていた。これを決めたのも橋本内閣の行政改革会議で、小泉純一郎氏が首相になる直前の2001年3月に資金運用部は廃止された(もともとこれは理財局の業務で「資金運用部」という部はなかったのだが)。
この結果、特殊法人のほとんどは独自に起債し、その債券を日本郵政公社が買う形になったので、一般会計からの赤字補填はほとんどなくなった。この財投が郵政民営化の「本丸」だったので、2001年4月に小泉首相が誕生したときは、その本丸はなくなっていた。財投改革をやったのは橋本内閣だったのだ。
それでも「官から民へ」とか「民間にできることは民間へ」という小泉首相の新自由主義は明快で、税金の無駄づかいを止めるという彼の哲学は、多くの国民の支持を集めた。
改革は、当初はスムーズに進んだわけではない。橋本内閣のつくった経済財政諮問会議を活用し、夏の概算要求に先立って6月に骨太の方針を出す方式は2001年から始まり、小泉首相は緊縮財政の方針を打ち出した。
これは常識では考えられない。このような大不況では総需要を支えるために財政赤字を増やすのがケインズ以来の常識であり、「金融危機の最中に歳出を削減するのは非常識だ」という批判が強かったが、2002年度の当初予算は前年度比10%の緊縮予算となった。
日本の財政赤字と実質成長率(出所:IMF)
しかし図のように日本の成長率は、緊縮財政の2002年から上がった。小泉内閣は大不況に緊縮予算を組む清算主義で成長を回復したのだ。
このような奇蹟が起こった原因には諸説あるが、一つは不良債権の清算で企業の新陳代謝が起こり、ゾンビ企業の抱え込んでいた資金が市場に循環し、潜在成長率が上がったこと。もう一つは日銀の福井総裁が量的緩和で企業の資金ぐり支援をしたことだろう。この時期には、量的緩和には効果があったのだ。
政治をマーケティングに変えた