ネーション(ナショナリズム)はその擬似的な拡張形態で、とりあえずは同じ国の「同胞」をケアしましょう。だからって他の国を無視はしないけど、それは順番として二番手でしょう、とするコンセンサスを作ってきた。

ところが、日本ってまだわりと豊かだから「家族なし」でもそこそこどうにかなるし、愛国主義を鼓吹して「敵軍から祖国を守れ!」みたいな事態もいまのところ避けることができているので、それらの装置が存在感を失っているんですよね。

結果として、ケアする範囲を絞る装置として能力主義だけが突出し、しかもその能力はどうやって測るのかといえば「YouTube再生何回」「フォロワー総数何人」「いいね率何%」……といった量的指標に還元されちゃったんですな。すべてが数値で示される、『過剰可視化社会』のなかで。

「バズった人だけがケアされる」なんて、まさに悪い意味での大衆社会の究極系ですけど、そうした状態をどう脱して、ひとりが全員をケアできないのはしかたない、しかしケアを「一切得られない」人もまたいない、という穏当な地点に持っていくのか。

はっきり言えば、それだけがいま考えるべき問題なんですよね。コロナだ! ウクライナだ! 宗教2世だ! ガザだ!……云々は、その瞬間だけ盛り上がる「ケアジャック」みたいなもので。現に1〜2年も経てば、最初は声高に騒いだ媒体ほど、さっさと次の話題に乗り換えてるじゃない(苦笑)。

ウクライナとガザのさなかに、8月15日をどう迎えるか|Yonaha Jun
年に一度の「戦争を振り返るシーズン」も、実に79回目。不幸なことに、ウクライナとガザの双方で、続く戦争が進行する中で迎える夏である。 昨秋から気にかけてきたが、ウクライナはついにロシア領内へ侵攻する冒険的な賭けに出た。またイランがイスラエルへの大規模報復に踏み切れば、文字どおりの「第五次中東戦争」となろう。 ...